タルコフスキー監督『惑星ソラリス』
その場面には監督の
離婚体験が反映している?
751時限目◎映画
堀間ロクなな
アンドレイ・タルコフスキーには離婚経験がある。1957年、25歳のときにソ連(ロシア)の国立映画大学で同期生だったイルマ・ラウシェと結婚し、映画監督デビュー作の『僕の村は戦場だった』(1962年)や『アンドレイ・ルブリョフ』(1966年)にイルマは出演する。ところが、『アンドレイ・ルブリョフ』の制作助手だったラリッサ・キジロワと恋に落ちると、一児までなしたイルマと1970年に離婚して、ラリッサとの再婚に至り、SF映画の金字塔『惑星ソラリス』(1972年)でラリッサは助監督をつとめた。
タルコフスキーの夫婦関係を辿ったのは他でもない、その『惑星ソラリス』にはかれのこうした実体験が反映しているように思うからだ。わたしもまた離婚を経験した者のひとりとして――。
いまさらストーリーの詳細を紹介するまでもあるまい。謎めいた惑星ソラリスの観測用宇宙ステーションで研究者たちに不可解なトラブルが相次ぎ、緊急調査のため心理学者のクリス・ケルヴィン(ドナタス・バニオニス)が派遣される。すると、ステーションに到着する成り、なんと10年前に死別した妻ハリー(ナタリヤ・ボンダルチェク)が立ち現れ、それはソラリスの「思考する海」がクリスの潜在意識を読み取って実体化させたものだった……という成り行きはよく知られているところだろう。
この映画の原作となったスタニスワフ・レムの小説(1961年)では、ここから未知の知性との遭遇をめぐって哲学的な思弁が展開していくのだが、タルコフスキー自身が脚本を手がけた映画のほうは様相を異にする。というのも、本来はニュートリノでつくられた複製でしかないはずのハリーがそこから逸脱して、クリスの妻だった実在の人物と自己を関連づけようとするのだ。その結果、10年前に激しい夫婦喧嘩のあとでクリスが家を空けたすきに妻のハリーが服毒自殺したという経緯が明かされて、両者のあいだでこんな対話が交わされる。
「私はなぜ死んだのかしら?」
「僕が愛していないと思ったからだろう。いまは愛している」
「私も愛しているわ」
「さあ、もう眠りなさい」
「これは夢じゃないのね。でも、なんだか……夢みたい、遠い昔のよう」
「それはやはり夢なんだろうな」
いまや実在したハリーと複製されたハリーが混交し、過去の出来事と現在の出来事が混交しはじめる……。こうした奇妙なドラマは、タルコフスキーの離婚の実体験がもたらしたのではなかったか?
かくいうわたしにもぴんとくるものがある。結婚生活をまっとうできなかった負い目からだろうか、離婚が境界線となって以前と以後がパラレルワールドのごとく分裂して、相手の女性もふたり別個にいるような気分に見舞われる。すなわち、かつてどうしようもなく葛藤を積み重ねた末に別れた相手と、その葛藤が洗い流されて懐かしい思いだけが占める相手だ。もちろん、実像は前者であって、後者はただの幻影とわかっていても、じゃあ、自分にとって本当に愛することができるのはどちらなのか、その問いかけがここで行われているのだ。実は、幻影こそが自分の求める妻ではないのか、と――。
だから、クリスは複製のハリーが「思考する海」を離れては存在できず、地球へ連れて帰ることは不可能だと知ると、こう口にする。
「僕はもう戻らない。君とずっとここにいっしょにいるよ!」
これは現実が見えなくなった人間のタワゴトだろうか? わたしは必ずしもそう思わない。今日、生成AI(人工知能)の出現にともなって、われわれの潜在意識のなかに棲む存在を具体的に形象化できるようになってきた。さらにイノベーションが進めば、わたしが離婚した相手の実像を捨象して、そこから自分にとって望ましい幻影のみを抽出して三次元に実体化させることも可能となるだろう。そのときには、自分もクリスと同じ言葉を口走るかもしれない。
なるほど、この啓示に満ちたSF映画のラストシーンは、地球がソラリスの「思考する海」に呑み込まれていくようにも見えるのである。
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