杉田玄白 著『蘭学事始』
そこには勉学のあり方が
鮮やかに示されて
754時限目◎本
堀間ロクなな
われわれはたいてい『蘭学事始』という書物と小学校の教科書で出会ったはずだ。江戸時代後期の個人的な手記について義務教育が大きく取り上げてきたのは、そこに勉学のあり方が鮮やかに示されているからだろう。
杉田玄白がここにオランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』の翻訳にまつわる経緯を記したのは1815年(文化12年)、83歳のときで、日本語訳の『解体新書』が世に出てからすでに半世紀近くが経過していた。巻頭には、いまや隆盛を誇るに至った蘭学の草創期に関して誤りが流布するのを恐れ、あえて史実を明かすとの主旨が開陳されているので、いわば当時の「プロジェクトX」におけるみずからの功績をあらためてアピールする狙いがあってのことだった。
1771年(明和8年)3月に千住骨ヶ原の刑場で行われた刑死者の腑分けに前野良沢、中川淳庵、玄白が立ち会って、『ターヘル・アナトミア』の解剖図の正確さに感銘を受けたことから前代未聞の事業がスタートしたことはよく知られているところだろう。
わたしはその記述を読みながら思うのだ、かれら三者の組み合わせの妙がカギだったのに違いない、と――。小浜藩医の家に生まれた玄白は外科をなりわいとしながら、やがて蘭学と出会うと東西の医学を綜合して新たな外科一派の創建をもくろむという、プランナーの資質の持ち主だった。また、中川淳庵は本草学を通じて平賀源内と「火浣布」を発明するなど、幅広い人脈を持つ多才多芸のインテリだった。そして、前野良沢について玄白はつぎのように紹介している。
この人幼少にして孤となり、その伯父淀侯の医師宮田全沢といふ人に養はれて成り立ちし男なり。〔中略〕その教へに、人といふ者は、世に廃れんと思ふ芸能は習ひ置きて末々までも絶えざるやうにし、当時人のすててせぬことになりしをばこれをなして、世のために後にその事の残るやうにすべしと教へられしよし。いかさまその教へに違はず。この良沢といへる男も天然の奇士にてありしなり。専ら医業を励み東洞(古医方の学者)の流法を信じてその業を勤め、遊芸にても、世にすたりし一筋截(ひとよぎり)を稽古してその秘曲を極め、またをかしきは、猿若狂言の会ありと聞きて、これも稽古に通ひしこともありたり。かくの如く奇を好む性なりしにより、青木(文蔵)君の門に入りて和蘭の横文字とその一二の国語をも習ひしなり。
ことほどさように風変わりな人物をフリー・スピリット(自由人)と呼べばいいのだろうか。その良沢が年長者のゆえもあって、玄白は「第一の盟主」の称号を捧げている。すなわち、フリー・スピリットのもとに、プランナーとインテリのトライアングルが成立して、それが強力な推進力を発揮したわけだ。かくして、まともな辞書もないままオランダ語の医学書を日本語に移すという「誠に艪舵(ろかじ)なき船の大海に乗り出だせしが如く」3年5カ月におよぶ作業がはじまった。
そんなかれらの悪戦苦闘ぶりを端的に伝えるつぎのエピソードもよく知られているところだろう。
また或る日、鼻のところにて、フルヘッヘンドせしものなりとあるに至りしに、この語わからず。これは如何なることにてあるべきと考へ合ひしに、如何ともせんやうなし。その頃ウヲールデンブック(釈辞書)といふものなし。漸く長崎より良沢求め帰りし簡略なる一小冊ありしを見合せたるに、フルヘッヘンドの釈註に、木の枝を断ち去れば、その跡フルヘッヘンドをなし、また庭を掃除すれば、その塵土(じんど)聚(あつ)まりフルヘッヘンドすといふやうに読み出だせり。これは如何なる意味なるべしと、また例の如くこじつけ考へ合ふに、弁へかねたり。時に、翁(玄白)思ふに、木の枝を断(き)りたる跡癒ゆれば堆(うずたか)くなり、また掃除して塵土聚まればこれも堆くなるなり。鼻は面中に在りて堆起(たいき)せるものなれば、フルヘッヘンドは堆(ウヅタカシ)といふことなるべし。然ればこの語は堆と訳しては如何といひければ、各々これを聞きて、甚だ尤もなり、堆と訳さば正当すべしと決定せり。その時の嬉しさは、何にたとへんかたもなく、連城の玉をも得し心地せり。
実は、『ターヘル・アナトミア』の当該箇所にフルヘッヘンドの語が見当たらず、玄白の記述はなんらかの誤認にもとづくものらしい。それはともかく、ここに描きだされているのが勉学に一途に立ち向かう人間の尊い姿であることは紛れもなく、かねて教育界が小学生たちに伝えようとしてきたのもむべなるかな。しかし、今日、デジタル教科書の出現によって容易に答えにアクセスできるようになったぶん、かれらが勉学の感動と出会うことはかえって困難になってしまったのではないだろうか。
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