チョン・ボラ著『月のもの』
血の色をした
宝石のように透明で美しく
788時限目◎本
堀間ロクなな
わたしがこれまで出会ったなかでも、最も奇抜な小説のひとつに違いない。韓国の女性作家、チョン・ボラの短篇集『呪いのウサギ』(2022年)に収められた『月のもの』だ。
文学専攻の大学院生キム・ヨンランは、生理時のひどい出血により産婦人科を受診すると、ピル(避妊薬)が処方されて、3週間飲んで1週間やめ、また3週間飲んで1週間やめるを3カ月間続けるようにいわれた。しかし、なかなか症状が改善しなかったため、6カ月にわたって服用したところ、ぴたりと不正出血が止まった一方で、今度は激しい吐き気に見舞われて「妊娠6カ月」の診断を受ける。まったく性交渉がなかったにもかかわらず。そして、原因は医師の指示にしたがわないでピルを6カ月間も飲み続けたことによる副作用だとして、さらにこう告げられた。関谷敦子訳。
「今回のように正常な過程で妊娠していない場合、男性配偶者がいないと、胎児が正常に細胞分裂して発育することができません。卵にも無精卵と有精卵があるのはご存じですよね? それと同じ理屈です。胎児が正常に発育できなければ、妊娠も正常ではないということになるので、結果として母体にも悪い影響があります。分かりますか?〔中略〕とにかく、早く父親になってくれる人を見つけてください。急いで。さもないと本当に大変なことになりますよ」
この成り行きは一体、何を意味しているのだろう? われわれは女性の妊娠について、生理がある→相手の男性がいる→性交渉を行う→受精が生じる、という流れを当たり前のプロセスと考えてなんら疑問を持たない。それからすると、キム・ヨンランの身に起きたのはわれわれの常識に真っ向から反する事態だ。いや、果たしてそう言い切れるかどうか。たとえば、人類の少なからぬパーセンテージは、聖母マリアがイエス・キリストを処女懐胎したと信じているらしいことからしても……。
実際、キム・ヨンラン本人だけでなく、彼女の家族までもがこの事態を受け容れて、一家総出で「子どもの父親探し」に乗りだすのだ。ありとあらゆるツテを使い、また、新聞に広告を出して相手を募ったところ、見合いの場で妊娠の経緯をまじめに考え込んだあまり音信不通となった若者やら、自分が子どもの父親だと言い張って法外な口止め料を要求してきた中年男やら、みずからが率いる財閥グループの跡取りが必要で婚姻関係を結びたいとふんぞりかえった老人やらの有象無象が出現したものの、結局、だれひとり決着のつかないうちに出産の日を迎えてしまう。
そのときキム・ヨンランが救急車のなかで生み落としたものに対して、医師は男性配偶者がいないまま放っておいた結果だと伝え、ベッドに横たわった彼女の目にはそれがこんなふうに映った。
彼女も赤ちゃんが自分を見つめていることは感じられた。しかし、血の塊のどのあたりに目があるのか、目はおろか、どこまでが頭でどこからが胴体なのかも分からなかった。彼女は当惑して血の塊をのぞき込んだ。
〈赤ちゃん〉はしきりにうごめき、急にブルブル震えた。赤黒い塊はほんの一瞬、血の色をした宝石のように透明で美しい光を放った。
次の瞬間、〈赤ちゃん〉は血液となって消失した。
やがて彼女はわれに返ると、すすり泣きをはじめ、悲しみとも安堵ともつかない感情に襲われて、最後には堰を切ったように号泣するのだった……。
まったくもって、この成り行きは一体? つまるところ、女性の妊娠とはたんなる生理的な現象にとどまらず、社会的な記号の産出を意味することをあからさまに暴きだしたものだろう。キム・ヨンランの生み落とした赤ん坊は、イエス・キリストと異なり、社会的な記号として成り立たなかった情景をとおして。そうしたあまりにも奇天烈なストーリーにわれわれが多少とも心動かされるとしたら、自分自身もまた、母親の胎内から送りだされた瞬間からまがりなりにも一個の社会的な記号として生きてきたことを感じ取っているからではないのか。
ただし、わたしにとって重大なこの発見も、なに、世の女性たちにはとっくにわかりきったハナシなのかもしれない。
0コメント