ビリー・ホリデイ歌唱『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』

女は男を求め
男は女を求める


792時限目◎音楽



堀間ロクなな


 わたしの手元にあるビリー・ホリデイのアルバムは、この不世出のジャズ・シンガーが24歳から29歳にかけて(1939~44年)吹き込んだ全16曲を収録したものだ。彼女の代名詞ともいうべき『奇妙な果実』の絶唱からはじまり、それぞれの曲がめざましい個性を放っているのだが、12番目に置かれた有名な『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』にも開いた口がふさがらない。ふだん聞き慣れたものとはまるで別の曲のように聴こえるからだ。



 ハーマン・ハプフェルドが1931年にブロードウェイのショーのために作詞・作曲したこの歌は、マイケル・カーティス監督の映画『カサブランカ』(1942年)の主題歌に採用されたことで広く知られることになった。前段の歌詞を、ネット上で見つけた「ニキ」の素晴らしい訳で掲げよう。



 これだけは心に留めていて欲しい

 キスはキスすることであり、

 ため息はため息をつくこと

 恋の基本はどの時代でもあてはまる

 いくら時が流れようとも


 恋人たちが恋をすると

 やはり「愛してる」とささやく

 だから信頼することができる

 この先どんな未来が訪れようとも

 いくら時が流れようとも



 『カサブランカ』では、かつて恋仲だった酒場の経営者ニック(ハンフリー・ボガード)と人妻イルザ(イングリッド・バーグマン)が数年ぶりに再会してふたたび惹かれあっていく恋愛劇を、酒場の黒人歌手サム(ドーリー・ウィルソン)のうたうこの歌が鮮やかに彩っていく。いかにも分別盛りの大人同士の純愛にふさわしいラブソングというべきだろう。



 ところが、ビリー・ホリデイの『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』は印象を異にする。そこには、およそ分別のかけらもない男と女のもっと生臭いドラマが息づいているようなのだ。後年の自叙伝『奇妙な果実』(1957年)によると、まだ10歳の幼いときに四十男に強姦され、母親とともに売春宿を転々とする生活を過ごしたのち、ナイトクラブの歌手となって成功した彼女は、このレコード録音を行ったころ、初めての結婚を体験した。だが、相手のトロンボーン奏者ジミー・モンローは麻薬の密売人でもあって、夫婦生活はたちまち凄まじい様相を帯びていき、自叙伝にはこんなふうに記されている。油井正一・大橋巨泉訳。



 私たちは最初ホテルに移った。その後小さなアパートを借りた。私はジミーと住みたいと願っていたところに落ちつき、たのしかるべき二人だけの住いを持った。しかし幸福ではなかった。彼は私にも一緒に、麻薬を吸うことをすすめた。私たちの結婚生活は終りに近づいた。私が麻薬のとりこになったのはこの頃である。しかし、私がそうなったことの原因を、ジミーになすりつけようとは思わない。自分のしたことは自分で責任をもつべきだ。〔中略〕この頃の私は、この世界で最高の給料を得る奴隷の一人となる直前であった。私は一週間に軽く千ドルをかせぎ出した。しかし百年前、ヴァージニアで働いていた我々の祖先である奴隷たち以上の、自由はもっていなかった。



 いやはや、なんという人生! しかし、こうした荒んだ日常のなかでたがいに深く傷つけあいながらも、哀しみの泥沼に溺れていても、やはり男と女を結ぶ愛の絆はかけがえのないことをビリー・ホリデイの歌唱は力強く訴えてくるのだ。後段の歌詞がまさしく主張するとおりに――。



 月の光とラブソング

 すたれることなどない

 人々はいつでも情熱と嫉妬と憎しみで

 心は満ちている

 女は男を求め

 男は女を求める

 誰も否定することの出来ない永遠の真理


 それが昔から続く変わらぬ物語

 栄光と愛への戦い

 生きるか死ぬかのせめぎあい

 恋する者たちを世界は優しく受け入れる

 いくら時が流れようとも



    

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とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍