『芥川龍之介写真集』

ふん、ちっとは
羽根でも飛んで見ろ


795時限目◎本



堀間ロクなな



 芥川龍之介が35歳で自死したのは1927年(昭和2年)7月24日だから、今年(2026年)、百回忌を迎えることになる。没後一世紀を経て、いまだにこれほど文名が盛んなのはもはや奇観というべきだろう。それにはジャーナリズムに聳え立つ芥川賞のゆえと見る向きもあろうが、しかし、他に有名作家にちなんだ文学賞は数多いけれども注目度において遠くおよばないのは、むしろこの賞が芥川の名前を冠したことでオーソリティを維持してきたと見たほうが妥当ではないか。



 こんなふうに思いめぐらしたのは、『芥川龍之介写真集』(秀明大学出版会 2024年)のページを繰りながら、あらためてそのただならぬ存在感を受け止めたからだ。



 日本近代文学館が編纂した大判176ページの図録は、第1章「芥川龍之介の生涯」。第2章「中国旅行」、第3章「芥川龍之介の家」の三部構成で、芥川の肖像写真約140点を一堂に会したのはまさに圧巻だ。序文で、中島国彦・日本近代文学館理事長がこれらは同館の写真データベースに収蔵されているものであり、「若き日の初々しい姿から、晩年の鬼気迫る表情まで、活躍した二十年足らずの肖像が浮かび上がります。写真が普及する時代となり、残された鷗外や漱石の写真と比べ、数も格段と多くなって、さまざまな個性のある芥川の姿が残されているのです」と述べている。



 確かに、幼少期からはじまって加齢とともに変遷していく芥川の風貌が記録されているものの、わたしは不思議な発見をした。華々しく文壇にデビューした大学在学中から、「ぼんやりとした不安」により睡眠薬自殺を図った最期の直前まで、中島理事長の指摘するさまざまな個性というより、むしろどれもこれも同じような顔つきに見受けられるのだ。そう、われわれが芥川龍之介という名前に対して思い浮かべる、黒髪が盛りあがった細面の、広い額の下から鋭い眼差しを向け、口元をきりりと引き結んだ、いかにもインテリゲンチャにふさわしい顔つきだ。



 その澄んだ瞳で世界を見据えるかのごとき表情は一体、何を意味しているのだろう? わたしはふいに気づいたのである。芥川は若年にして流行作家となりおおせたときから、たんに写真の普及のせいばかりでなく、みずからあえてジャーナリズムに対して「芥川龍之介」を演じはじめたのではなかったか、と――(その意味では、後年の三島由紀夫を先取りしていたのかもしれない)。



 芥川は最晩年の『侏儒の言葉』(1927年)で、「作家」と題してつぎのようなアフォリズムを書きつけている。



 百足(むかで) ちつとは足でも歩いて見ろ。

 蝶(てふ) ふん、ちつとは羽根でも飛んで見ろ。



 すなわち、かれはここで、時代の寵児としてひたすら「百足」のごとく地に足をつけて歩こうとしてきた自己を揶揄してみせたのではなかったか?



 実は、この写真集のなかでたった一枚、まるで異なった顔つきの芥川をとらえた写真がある。1924年(大正13年)7月20日、東京・田端の自宅書斎で新潮社が撮影したもので、和服を着込んだ芥川は右手に吸いかけのタバコを持ち、左手を書棚に掛けて、満面の笑みを浮かべている。そもそも歯をむきだしにした表情は他に見当たらない。前後の脈絡から切り離して、これだけを目にしたなら、おそらくわたしも芥川だとは判別がつかないだろう。いわば、このワンショットはまさに、かれが足で歩く「百足」から羽根で飛ぶ「蝶」へと転じた瞬間を記録したものだったのだ。



 もしこんなふうに羽根をのばし肩から力を抜いて、別の顔つきの「芥川龍之介」をジャーナリズムで演じていたならば、あるいはもっと長い人生を過ごせたのではないだろうか。ただし、その場合は、果たして一世紀後の現在に至るまで文名を誇ることができたどうかわからないけれど……。


   

一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍