ニーチェ著『善悪の彼岸』

彼らのごとくあれ、
凡庸になれ!


801時限目◎本



堀間ロクなな


 AI(人工知能)の人間への接近がこのところ盛んに論議されている。しかし、問題はむしろ人間の側がAIに接近しつつあることではないか? 毎日のニュースを眺めれば、社会のさまざまな局面で人間がみずから存在理由(レゾンデートル)を放擲し、なだれを打ってAIへの依存に傾斜していくありさまに呆れ返るほどだ。



 今般(2026年5月)の読売ジャイアンツ・阿部慎之助監督の暴力事件にしても、家庭内のトラブルをめぐって18歳の長女が生成AIに判断を求めたことから児童相談所の告発、警察の現行犯逮捕に至り、即日監督辞任へと展開していったという、見方によっては支離滅裂な成り行きを大方の世論が受け入れているようだ。つまりは、いまや世間一般でふつうにまかり通っている事態のひとコマなのに違いない。



 こんなふうにもいってもいいのだろう。われわれが社会生活を営むうえでの規範を道徳と呼ぶなら、今日、もはや道徳の座標軸はAIに移行しつつある、と――。一体、この状況が意味するものは何か。それを読み解くには、いっそ19世紀ドイツの異端の哲学者、フリードリヒ・ニーチェの『善悪の彼岸』(1886年)の鋭利な切っ先を用いるべきだろうというのがわたしの見立てだ。



 あの『ツァラトゥストラかく語りき』全四部を刊行して間もない41歳のニーチェは、この著作において「道徳とはすべて自由放任(レセ・アレ)の反対であり、『自然』にたいする圧政であり、『理性』にたいする圧政である」と定義づけたうえで、つぎのように論理展開していく。中山元訳。



 わたしたちが発見したのは、ヨーロッパが、そしてヨーロッパの影響のもとにある国々が、すべての道徳的に重要な判断において意見が一致しているということである。ヨーロッパの人々は、ソクラテスが知りえないと考えていたこと、あの有名な蛇がかつて〔アダムとエバに〕教えると約束したことを、はっきりと知っているのだ。人々はいまや、何が善であり、何が悪であるかを「知っている」のである。〔中略〕ここで善と悪とは何であるかを知っていると考えているもの、称賛し非難しながらみずからを称えているもの、みずからを善と称しているもの、それは家畜の群れとしての人間の本能である。この本能は突然に姿を現し、優勢になり、他のさまざまな本能を凌駕したのであり、いまますます凌駕しつつあるものである。そして人々が生理学的に近いものとなり、類似したものとなるにつれて(この本能はその兆候なのだ)、ますます優勢になりつつある。今日のヨーロッパの道徳は、家畜の群れの道徳なのだ。



 こうしてニーチェは、本来、自然な精神が息づいていたヨーロッパにキリスト教が「家畜の群れの道徳」を持ち込んだことに徹底的な弾劾を浴びせていくわけだが、その愛の宗教が過去二千年にわたって占めてきた地位を、21世紀中盤に差しかかった現在、AIが全世界的な規模で掌握しつつあるように観察できるのだ。この先にはいかなる世界が待ち受けているのだろうか?



 ニーチェは「家畜の群れの道徳」がやがて行き着く未来について、自己を擬した道徳哲学者の目をとおして恐るべきヴィジョンを描きだしてみせる。



 ここにふたたび危険が、道徳の母である大いなる危険が、しかしこのたびは個人のうちに現れる。隣人と友人のうちに、街路に、自分の子供のうちに、自分の胸のうちに、みずからの願望と意志のもっとも秘められたところに現れるのである。このような時代に登場する道徳哲学者は、どのような教えを説くべきなのだろうか? 鋭いまなざしをもつ観察者であり、観照者である道徳哲学者たちは、この事態にすぐに終焉が訪れること、周囲のすべてのものが腐敗したものであり、腐敗させるものであること、ある種の人間、救い難いほどに凡庸な人間のほかには、明後日まで生き延びる者はいないことを発見する。凡庸な人間だけが、生き延び、繁殖しつづける見込みがあるのである。――これらの人々こそが未来の人間であり、唯一の生存者となるのである。今やまだ意味をもつ道徳、耳をもっている人々のための唯一の道徳は、「彼らのごとくあれ、凡庸になれ!」というものである。――しかし、この凡庸の道徳を説くのは実に困難なことなのだ!



 もはや人類は民族や文化のアイデンティティも溶け去って、ことごとく平均化への道を歩んでいくことになるだろうと警鐘を打ち鳴らし、こうした究極の堕落を阻止するためには新たな哲学者が必要だと主張するのだが、果たして人類はその出現を迎えられるのかどうか。ニーチェは『善悪の彼岸』を発表した3年後に狂気の淵に沈んで、以後、二度とふたたび正気を取り戻すことはなかった。



 わたしはサラリーマン生活を終えた現在でも、たまに必要に応じて通勤列車に乗る機会があって、そのたびに呆然としてしまう。ひたすらスマホとにらめっこしている乗客たちが、なんの感情も窺えないのっぺらぼうの顔つきばかりだから。本人たちが気づいていないにせよ、主権は手にした小さなAI機器のほうにあり、かれらはその管理下に置かれた家畜の群れのように見えるのだ。世間はすでに「救い難いほどに凡庸な人間」によって埋め尽くされはじめているのかもしれない――。



 

一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍