ヒッチコック監督『めまい』

そこに解き明かされた
「高所恐怖症」の内実


803時限目◎映画



堀間ロクなな


 高いところが苦手だ。そうした状況に出くわしたとたん、音を立てて顔から血の気が引いて、ありありとキンタマの縮みあがるのがわかる(女性はどのような反応をきたすのだろう?)。こうしたわたしにとって、アルフレッド・ヒッチコック監督の『めまい』(1958年)ははなはだ示唆に富む映画だ。



 サンフランシスコの刑事スコティ(ジェームズ・スチュアート)はビルの屋上で容疑者を追跡中、かれの身代わりとなって同僚刑事が墜落死したショックで警察を辞める。そんなかれに対して親しい会社社長から妻マデリン(キム・ノヴァク)の身辺警護の依頼がもたらされたさなか、自殺未遂の前歴がある彼女は教会の鐘楼へと駆け上がり、かれがめまいに襲われてあとを追えないのを尻目に身を投げてしまう。その数日後、自責の念に苛まれるスコティは街角でマデリンとそっくりのジュディと出会って、恋愛感情にとらわれつつ、やがてふたりの女性は同一人物であり、そこに巧妙な陰謀の仕掛けられていたことが浮かびあがってくる……。



 いかにもヒッチコックらしいめくるめくミステリーの展開にあって、重要なキーポイントをなしているのは、スコティが不慮のアクシデントで負った「高所恐怖症」だ。その実情を確かめるために、かれはデザイナーのガールフレンド(バーバラ・ベル・ゲデス)のオフィスで階段式の椅子を使った実験に臨む。



 「まず一段目にあがってみよう。上を見て下を見る、大丈夫だ」

 「いいわ。今度は二段目ね」

 「さあ行くぞ。どうだ、上を見て下を見る」

 「無理しないで」



 そして、スコティが三段目にのぼって上を見て下を見たとたん、窓の外のミニチュア細工のような街並みが目に入って崩れ落ちるのだった。これは一体、何を意味しているのだろうか?



 19世紀ロシアの文豪ドストエフスキーは『悪霊』(1873年)のなかで、つぎのような譬えを用いている。もしアパートの建物ほどもある巨大な石が宙吊りになっていて、それが頭の上に落ちてきたときに痛いかどうかと考えたら、実のところ、なんの痛みを感じる間もなく押しつぶされてしまうはずなのに、われわれはそこに非常な痛みを想像する。つまり、石には痛みがなく、石からの恐怖に痛みがあるというのだ。この構図を逆転させれば、自分がある程度の高さのところにいるときに、もし転落して地面に叩きつけられたとしてももはや痛みなどないはずなのに、非常な痛みを想像して心身がすっかり委縮してしまうのが「高所恐怖症」だと理解できるだろう。上記の階段式の椅子を使った実験は、そうした高さと痛みの想像の相関関係をモデルとして示したものに他ならない。



 さらに、映画は最後に驚くべきヴィジョンを提示してみせる。スコティは、かつてマデリンの投身現場となった教会の鐘楼にジュディを強引に連れていくと、こんなふうに激しく迫った。



 「きみはマデリンの役になってあのときのショックをぼくに与えてくれ。そうしたら、この病気は治るのだ!」



 つまり、こういうことだろう。「高所恐怖症」の内実が、そこに痛みのないことを知っている自己と、同時に痛みを感じないではいられない自己の分裂だとすると、それぞれの自己に対応するジュデュとマデリンを合体させることで、自己の分裂を綴じあわせてひとつに統合する試みだといえるだろう。その結果、スコティはたちまち厄介な症状の克服に成功したのである。おそらく、わたしもまた、女性の献身的な協力を得るなどして自己の分裂を乗り越えることができれば、この高いところの苦手意識から解放されるのかもしれない。『めまい』はそう教えてくれるのである。



 ただし、「高所恐怖症」の撲滅が果たして望ましい事態なのかどうか。現在の日本社会では、高層マンションで生まれ育った子どもたちのあいだにむしろ「高所平気症」がはびこって、相次ぐ転落死亡事故につながっているのだとか……。 



 

一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍