下村湖人 著『次郎物語』
こちらの世界と
あちらの異界が接する場所
804時限目◎本
堀間ロクなな
いまの子どもたちは『次郎物語』を読むのだろうか? この社会教育家であった下村湖人の自伝的な大河小説は、1936年(昭和11年)から18年間かけてさまざまな雑誌に書き継がれ、五部までがまとまったところで著者の死去により未完に終わった。したがって、当然ながら世間一般が読者対象の作品なのだが、その幼少期を描いた第一部はとくに児童文学としても広く人気を博し、わたしも小学校の図書館から借りだして熱心に読んだことを憶えている。
九州の旧士族の家の二男に生まれた本田次郎は、幼いころ里子に出され、物心ついてから実家へ戻ってきたが、格式張った家風に馴染めずにしょっちゅうトラブルを引き起こしてしまう。そのなかで、最も凄まじいのはつぎのエピソードだろう。次郎は実母のお民が兄・恭一や弟・俊三ばかりを可愛がって、自分に辛く当たるのが面白くなく、その嫉妬心から小学2年生の恭一に対してこんな挙に出たのだ。
翌朝起きるとすぐ、彼は、恭一の学用品を入れた雑嚢をかかえて、こっそり便所に行った。そして、大便をすますついでに、それを壺の中に放りこんでしまったのである。
放りこむまでは、彼は冒険家が味わうような一種の興奮を覚えていた。しかし雑嚢がどしんと壺の中に落ちた瞬間、彼は取りかえしのつかないことをしてしまったと思った。そして、時がたつにつれて、発覚の心配がひしひしと彼の胸に食い入って来た。
彼は胸の底に、かつて経験したことのない一種の心細さを覚えた。
この場面にはわたしだけでなく、かつての子どもはすべて戦慄したはずだが、果たしていまの子どもたちには理解できるのかどうか。
トイレが汲み取り式(いわゆる、ボットン便所)だった時代、そこは子どもにとってまことに恐ろしい場所だった。便器の下には濃密な臭気を立ち昇らせる闇が広がり、毎朝、それをまたいで尻を突きだし用を足さなければならない……。わたしは恐怖のあまり、一度足を踏み外して落ちかけたことがある。かろうじて両手で便器にしがみつき、足の爪先がどろどろしたものに浸かった状態のまま、火がついたように泣き叫んで、慌ただしく駆けつけてきた母親に引き揚げてもらった。あのときの実感からすると、便所とはこちらの世界とあちらの異界がきわどく接しあう場所なのだろう。
だから、次郎が兄の学用品を始末するにあたって、近くの川に流したり地面に埋めたりしたほうが証拠隠滅できたはずなのに、あえて家の便所を選んだのは、この世界から切り離れた異界の闇に葬ってやろうという意思があったからだと思う。
さて、その行動の結末やいかに? いつまでも学校に行けず泣きわめく恭一や、あの手この手で責め立ててくる母親のお民を尻目に、次郎は知らぬ存ぜぬで押しとおしたものの、やがて便所の汲み取り作業のさなかにどろどろの雫を垂らす雑嚢が柄杓の先に引っ掛かって、ついに白日のもとに晒されたのだ。
万事は明瞭になった。次郎は、その日じゅうどこかに身をかくしていたが、暮れ方になっておずおずと裏口から帰って来た。
お民や、お祖母さんが、その晩彼をどう待遇したか、また彼がどんな態度で彼らに反抗したかは、読者の想像にまかせる。ただ、この事件以来、彼がこれまでよりいっそう大胆になり、かつ細心になったことだけは、たしかである。
読者の想像にまかせる、といわれても、小心者のわたしは次郎のようにふてぶてしく振る舞えるわけもなく、もし自分がこんな事態に直面したらすっかり途方に暮れてしまうとしか思いつかなかった。ましてや、いまの水洗式のトイレに馴染んだ子どもたちは、こうした便所にまつわるおどろおどろしい葛藤などおよそ想像の外なのに違いない。
この読書体験には後日譚がある。
ずっとのちに、わたしはJR中央線の東小金井駅から北西方向に徒歩15分ほどの距離にあるアパートで暮らすことになり、すぐ近くに浴恩館公園というものがあるのを知った。鬱蒼とした武蔵野の雑木林のなかにひっそりと木造平屋建ての学舎がたたずんでおり、これは昭和初年から大日本青年団の講習所として使われた施設で、下村湖人も所長として教育実践活動に携わりながら『次郎物語』の筆を執った場所だという。木漏れ日のもとで深呼吸すると、次郎があの日、兄の学用品を便器に落としながら嗅いだであろう糞尿の臭いが、わたしの鼻の奥にもよみがえってきたのだった……。
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