ジョージ・スティーヴンス監督『アンネの日記』&ロバート・ドーンヘルム監督『アンネ・フランク』

私は信じているの、
人間は本来善であるって


806時限目◎映画



堀間ロクなな


 ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害のシンボル、アンネ・フランクの悲劇を描いた映画のうち、最も有名なのはジョージ・スティーヴンス監督の『アンネの日記』(1959年)だろう。アムステルダムでの隠れ家生活ののち、彼女がベルゲン=ベルゼン収容所で世を去ってからまだ14年しか経っていない時期につくられたモノクロームの作品は、これまで世界じゅうの人々の涙を誘ってきたはずで、わたしもそのひとりだ。



 ブロードウェイで高い評価を得た舞台にもとづくだけに緻密に組み立てられた対話劇において、アンネ(ミリー・パーキンス)は多感な思春期に弄ばれつつあくまで純真で、約2年間にわたって外界から遮断された不自由な生活のなかで、同居人の少年ペーター(リチャード・ベイマー)とのあいだに少しずつ愛を育んでいく。そして、ついにゲシュタポ(ドイツ秘密警察)の魔手が迫ってきたとき、ふたりは屋根裏部屋の窓の下でこんなやりとりのあとに最初で最後のキスを交わすのだった。



 「こんな恐ろしい世の中で何かを信じるのは難しいけれど、でも、私はいつか見られると信じているの。人間は本来善であるって」 

 「僕は遠い先じゃなくて、いますぐ見たいよ」 

 「でも、ペーター。広大な宇宙から見たら、私たしの命なんてほんの一瞬よ。あら、いやだ、大人みたいな議論をしちゃって。さあ、空を見て、きれいでしょ!」



 このクライマックスの光景は、わたしにシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』のバルコニー・シーンを連想させないではおかない。そこには、運命によって引き裂かれた恋人たちだけがまとうことのできる永遠の輝きがあった。



 ところが、ここにまったく別の角度からアンネの悲劇にアプローチした映画が存在する。ロバート・ドーンヘルム監督の『アンネ・フランク』(2001年)だ。こちらはウィーン生まれの女性ジャーナリスト、メリッサ・ミュラーがアンネの友人・知人や隠れ家生活の支援者たち、強制収容所で接触した人々などに取材してまとめた『アンネの伝記』(1998年)を踏まえて、彼女の短い人生に起きたことを可能なかぎり忠実に再現している。



 その映像は驚くべきものであり、ときに正視に耐えない場面を含む。隠れ家生活のストレスのもとで、アンネ(ハナ・テイラー・ゴードン)は感情の起伏が激しく、姉マルゴーからペーターを奪い、母親とはことあるごとに険しく対立する。やがて同居人のあいだには抜き差しならぬいさかいが積み重なっていって、こうした仲間内の不和がついに秘密の露見を招いたことが示唆されるのだ。しかし、だれがそれを責められるだろうか? もしわれわれがもし同じ境遇に陥ったとき、8人もの男女が狭い空間でどれほどいっしょに暮らせるものかどうか、想像してみたらいい。むしろ、約2年間ものあいだ維持できた事実のほうが賞賛に値するとわたしは思う。



 さらにショッキングなのは、ゲシュタポによる逮捕後、一同がはじめに「オランダのエルサレム」と称するヴェステルボルク通過収容所へ送られると、アンネが晴れ晴れとした笑顔を見せたことだ。そこはまがりなりにもユダヤ人同士の自治が許され、学校や電話局、キャバレーまであって、隠れ家生活から解き放たれた喜びがどれほど大きかったかをあからさまに示したものに違いない。そして、長らく対立してきた母親や姉と和解して親密な交流を取り戻す一方で、ペーターへの恋愛感情が次第に色褪せたのも当然だったろう。



 しかし、それは束の間の虚構の自由だった。ほどなく、アウシュヴィッツ=ビルケナウ(ポーランド)、ベルゲン=ベルゼン収容所(ドイツ)へと移送されて、人間の尊厳がことごとく踏みにじられていくなかで、アンネは姉マルゴーとともに飢餓にあえぎながら、最後はチブスによって15年の生涯を終えた。映画のベースとなった『アンネの伝記』の著者メリッサ・ミュラーはつぎのように結んでいる。



 「殺人集団ナチと、それを黙認した協力者たちは、アンネの命を奪うことには成功したが、彼女の声までは奪えなかった。〔中略〕彼女の声はいまなお、彼女が呼びかけようとしていた人たちのあいだで重きをなしている」(畔上司訳)



 人間は本来善である――。アンネ・フランクが日記に刻みつけたその言葉は、まさに21世紀の現在、世界各地で子どもの犠牲をかえりみず戦火を繰り広げる政治権力者たちに鋭く突きつけられているのである。  



一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍