モーツァルト作曲『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』
名曲に秘められた
ミステリーを推理する
807時限目◎音楽
堀間ロクなな
ミロス・フォアマン監督の映画『アマデウス』(1984年)には開幕早々、こんなシーンがある。老作曲家サリエリ(F・マーリー・エイブラハム)は、自分がモーツァルトを毒殺した、と主張して自殺未遂を引き起こし癲狂院に収容される。そこへやってきた若い聴聞僧に向かって、かれはかつて喝采された自文の曲をチェンバロで演奏して聞かせるが、相手が首を振るばかりなのを見て、今度は『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』の冒頭を弾いてみせると、神父は目を輝かせていっしょに口ずさむのだった……。
ことほどさように、この四つの楽章から成るセレナードは、モーツァルトのおびただしい作品のなかでも世界じゅうで世代を問わず親しまれてきた(『トルコ行進曲』と双璧の)人気曲だろう。
しかし、そこには大きなミステリーが横たわっている。ひとつは、モーツァルト本人が作成した自作目録によって、この曲が1787年8月10日にウィーンで完成したことは明らかなものの、一体、どのような理由でつくられたのか、そのあたりの事情がさっぱりわからない。もうひとつは、みずから名づけた『アイネ・クライネ・ナハトムジーク(Eine Kleine Nachtmusik)』とは「小さい夜の音楽」の意味だが、この言葉に反して、もともとは全5楽章構成のレッキとした規模の楽曲であることだ(のちに第2楽章が失われた)。なお、ドイツ語のKleineには「小さい」に加えて「ちょっとした、ささいな、取るに足りない」といったニュアンスも含むという。
そこで、わたしなりにこのミステリーを推理してみたい。手がかりはモーツァルトが書き残した手紙だ。実は、上記の『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』完成の日付は、父のレオポルトが同年5月28日に67歳で世を去ってから約2か月後のものだ。その病床の父に宛てた見舞いの手紙(同年4月4日)のなかで、モーツァルトはつぎのような文章をしたためていた。
「もっとも私は、何ごとについてもいつも最悪のことを考えるのが習慣になっています。死は(厳密に考えて)われわれの一生の真の最終目標なのですから、私は数年この方、人間のこの真の最善の友ととても親しくなって、その姿が私にとってもう何の恐ろしいものでもなくなり、むしろ多くの安らぎと慰めを与えるものとなっています! そして、神さまが私に、死がわれわれの真の幸福の鍵だと知る機会を(私の申すことがお分かりになりますね)幸いにも恵んで下さったことを、ありがたいと思っています」(柴田治三郎訳)
この一節はモーツァルトの死生観を端的に示したものとして知られ、いささか芝居がかった調子が鼻につくにせよ、かれにとって幼いころから絶対的な存在だった父の最期が非常に大きな意味を持ったことは間違いない。そのインパクトが、このあとに取り組んだオペラ『ドン・ジョヴァンニ』(同年10月29日初演)の怒れる騎士長の造型に投影されたのは周知のとおりだ。
しかし、ことはそれだけで割り切れる話ではなかったらしい。というのも、父の死後、まださほどの時日も経たないうちに、かれはザルツブルクの実家の姉ナンネルにこんな手紙(同年6月20日)を書き送っているからだ。
「ぼくたちの最愛の父の急逝の知らせが、ぼくにとってどんなに悲しいものだったか、容易にお察しいただけるでしょう――この喪失は、姉さんにもぼくにも、同じものですから。今のところウィーンを去ることは(それはむしろ姉さんを抱擁する喜びのためにしたいことですが)とてもできませんし、お父さんの遺産については骨を折るほどのこともないでしょうから、正直のところ、競売に付するということで、姉さんとまったく同意見です。ただ、ぼくもいくらか選択ができるように、前もって目録を見たいものです」
この文面は要するに、父の遺産分配における自分の取り分について釘を刺すものだ。すなわち、悲嘆に暮れる一方で、早くも「濡れ手に泡」でいくばくかの金品を受け取れることに胸をふくらませているわけで、『ドン・ジョヴァンニ』の深刻な音楽と並行して、陽気な『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』が書かれたのはこうした背景からであり、そのひめやかな喜びの気分がKleineの「ちょっとした、ささいな、取るに足りない」のニュアンスにも滲みでているのではないか。
こうした推理は、果たしてモーツァルトに対して礼を失するものだろうか? まさか。親が息を引き取るやいなや、その財産相続をめぐってさっそく胸算用が働きはじめるのは世間一般のわれわれと同じはずだし、それを責めたり笑ったりすることはだれにもできまい。むしろ、こうした当たり前の欲求を昇華して空前の名作に仕立てあげてしまうところに真の天才を見るべきだ、とわたしは思う。
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