坂口安吾 著『日本文化私観』
法隆寺も平等院も
焼けてしまって困らぬ
808時限目◎本
堀間ロクなな
東京・東大和市が立川市や小平市と向きあう南端に「都立東大和南公園」が広がる。先日、近隣に住む友人夫婦に誘われて遊びに出かけたところ、思いもよらないものと出くわした。子どもたちが走りまわっている芝生の公園のどまんなかに二階建てコンクリート製の建造物がどっしりと居据わり、さらに異様なのは、その壁面に無数のクレーター状の弾痕が穿たれていたことだ。
「旧日立航空機立川工場変電所」
1938年(昭和13年)につくられた軍用機のエンジン製造工場の施設で、太平洋戦争末期にアメリカ軍の標的となって3度の空襲により従業員111名が命を落とし、そのとき激しい機銃掃射を浴びた外観のまま「戦争遺跡」として現在まで保存されてきたという。こうした歴史的背景はともかく、わたしが一見して圧倒されたのは、おのれの運命にびくともしない、したたかな存在感だった。そして、しばらくたって、それがどうやら美であるらしいことに思い至ったのだ。
「この三つのものが、なぜ、かくも美しいのか。ここには、美しくするために加工した美しさが、一切ない。美というものの立場から附け加えた一本の柱も鋼鉄もなく、美しくないという理由によって、取り去った一本の柱も鋼鉄もない。ただ必要なもののみが、必要な場所に置かれた。そうして、不要なる物はすべて除かれ、必要のみが要求する独自の形が出来上っているのである。それは、それ自身に似る外には、他の何物にも似ていない形である。必要によって柱は遠慮なく歪められ、鋼鉄はデコボコに張りめぐらされ、レールは突然頭上から飛び出してくる。すべては、ただ、必要ということだ。そのほかのどのような旧来の観念も、この必要のやむべからざる生成をはばむ力とは成り得なかった。そうして、ここに、何物にも似ない三つのものが出来上ったのである」
坂口安吾が太平洋戦争下に執筆した『日本文化私観』(1942年)の一節だ。この無頼の作家は、ドイツ人建築家のブルーノ・タウトが絶賛した桂離宮といったものは一顧だにせず、むしろ荒川沿いの小菅刑務所や佃島のドライアイス工場、また、ある港町で目にした駆逐艦の光景のほうに心惹かれるとして、その理由を上記のように論じてみせた。なるほど、わたしが軍需工場の変電所施設の遺跡に一種の美を感得したのも、それが必要なものだけで成り立ち、不要なものをすべて切り捨てた、ひどく殺風景でありながら独自の存在感を呈していたからだろう。
こうした実用的な美を生みだしたのは、戦争という国家存亡の危機にあった時代ならではのことだろうか? わたしは必ずしもそう思わない。今日、日本人は平和と飽食のもとで、ふんだんな美に取り囲まれて暮らしているつもりでいるけれど、近未来に高い確率で日本列島を見舞うと予測される巨大地震や富士山噴火が現実のものとなったら、それらはアブクのごとく消え去ってしまうだろう。じゃあ、そのときに日本人の心を支えてくれる美とはどのようなものなのか? 安吾はこんなふうに続けている。
「見たところのスマートだけでは、真に美なる物とはなり得ない。すべては、実質の問題だ。美しさのための美しさは素直でなく、結局、本当の物ではないのである。要するに、空虚なのだ。そうして、空虚なものは、その真実のものによって人を打つことは決してなく、詮ずるところ、有っても無くても構わない代物である。法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺をとり壊して停車場をつくるがいい。我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して亡びはしないのである。武蔵野の静かな落日はなくなったが、累々たるバラックの屋根に夕陽が落ち、埃のために晴れた日も曇り月夜の景観に代ってネオン・サインが光っている。ここに我々の実際の生活が魂を下している限り、これが美しくなくて、何であろうか」
いかにも乱暴な意見だろう。しかし、われわれが未来に向けて空虚の美から抜けだし、日本列島の地に足のついた真実の美のあり方を見出していくうえのヒントがここにあるのかもしれない。あの「旧日立航空機立川工場変電所」の満身創痍の建物もまた、それを伝えているように思えるのだ。
0コメント