小栗 旬 主演『フロントライン』

2020年2月、日本に
新型コロナがやってきた


809時限目◎映画



堀間ロクなな


 当たり前のように流れていた日常が、ある日、突然の危機によって堰き止められて先行きが見通せない事態に瀕したときに、その国家や社会の精神風土が否応もなく露わになる。新型コロナウイルスが引き起こしたパンデミックもまさに典型的な実例だけに、関根光才監督の『フロントライン』(2025年)が突きつけた教訓にはすこぶる大きな価値がある、とわたしは思う。



 その発端となったのが、2020年2月、横浜港に入港した豪華客船ダイヤモンド・プリンセス号で発生した集団感染だったことは記憶に新しい。この映画は、まだウイルスの正体もわからない恐怖のなかで、船上の隔離開始から25日後に3700名の乗客・乗員をすべて下船させるまでの一部始終を事実にもとづいて再現したものだ。主役となるのはDMAT(ディーマット)。ふだん全国の病院に勤務する医師・看護師などの一種のボランティア団体で、突発的な災害時に医療支援を行うことを目的とするが、当時ウイルス災害は想定されていなかった。しかし、神奈川県庁からの強い要請を受けて、ろくに言葉も通じない世界各国からの乗客を相手に救援活動がスタートした……。



 そこで、この後に展開するドラマをとおして、わたしなりに日本社会の精神風土に特有の三つのポイントを摘出してみたい。



 第一、 危機のまっただなかの責任の所在不明



 太平洋戦争の敗戦以後、日本の組織をめぐってしばしば指摘されてきた論点が、この新型コロナウイルスの事態でもあからさまに露呈する。対策本部では、DMATのリーダーの結城(小栗旬)と船上で指揮にあたる仙道(窪塚洋介)を取り巻くように、厚労省から派遣されてきたエリート官僚(松坂桃李)や、県庁・検疫所などの面々がひしめきあう。そして、つぎつぎと立ちはだかる難題を前にしておたがいに「責任は取れるのですか!」と言葉をぶつけ、右往左往するうちにあいまいな力学が働いて進行していく。まったくもって心許ない光景なのだが、しかし、東日本大震災の福島第一原発事故のときのように総理大臣が乗りだしてきたらさらに混乱するのは目に見えている。是非もないというべきか。



 第二、 マスコミとアカデミズムの夜郎自大ぶり



 テレビは事態発覚の瞬間から視聴者の不安をひたすら煽り立て、その報道姿勢に疑問を抱いた女性レポーター(桜井ユキ)に対して、上司(光石研)は「それがマスコミだからね。きょうも政府はしっかり働いています、世の中そこそこ平和ですってやったら、だれもニュースなんて見やしないよ」とうそぶく。テレビだけではない。感染症の専門家を自称する大学教授(吹越満)はみずからDMATの対応を批判する動画を作成してネット上に公開し、いっそう世間の不安を煽ったあげく、現場で医療支援に当たる医師から事実誤認を指摘されると、たちどころに動画を取り下げて頬かむりを決め込む。こうしたマスコミとアカデミズムの夜郎自大ぶりも、いまさら是非もないのかもしれない。



 第三、 ユニフォームをまとった人々の献身



 かくして、天から降って湧いたような緊急事態を乗り切ったのは、結局、DMATの結城と仙道のもとに結集したメンバー、治療法も不明のまま患者のケアにあたった医療スタッフ、また、長期間の隔離により自殺未遂まで生じた乗客たちをサポートしたダイヤモンド・プリンセス号の日本人スクルー(森七菜)……といった、ユニフォームをまとった人々だった。マスコミのせいで世間と現場が分断され、かれらは肩身の狭い立場に置かれたばかりでなく、その家族までが周囲の差別に遭うという逆境のもとで、自己犠牲的な献身により職務を遂行していった。日本社会が根深い矛盾を抱え込んだなかで、おそらく最も誇るべきはこうした現場を支える人々の存在なのだろう。



 厚労省はさきごろ、昨年(2025年)1~11月期の新型コロナウイルス感染症による死者数を20,429人と発表した。すなわち、いまだに年間に東日本大震災の死者・行方不明者の総数に匹敵する犠牲者を出しているわけで、その意味では新型コロナウイルスとの戦いは終わっていないといえる。今日もなお、厳しい現実を前にしながらおよそ責任体制は空洞のまま、マスコミやアカデミズムが足を引っ張りかねない状況下にあって、ユニフォームをまとった人々の命懸けの努力が日本社会の安寧秩序を支えているのだろう。その切実な教訓を、映画『フロントライン』は訴えかけている。 


  

一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍