ハイドン作曲『天地創造』

まちがった妄想が
お前たちを誘惑せぬかぎり


815時限目◎音楽



堀間ロクなな


 ヨーゼフ・ハイドン作曲のオラトリオ『天地創造』(1798年初演)をわれわれが観賞するとき、ぜひとも必要としたいものがある。想像力だ。



 それまでもっぱら貴族の宮廷のための音楽をつくってきたハイドンは、1794年に二度目のロンドン訪問に出向いた際、ヘンデルのオラトリオ『メサイア』(1742年初演)が一般大衆の絶大な人気を博しているのを目の当たりにして、みずからもこのジャンルへの食指を動かした。オラトリオとは、ローマ・カトリック教会の典礼に発祥し、独唱・合唱の声楽とオーケストラを組み合わせた大がかりな宗教曲を指す。そこで、イエス・キリストの生涯を描いた『メサイア』の向こうを張って、神による天地創造と人類誕生のストーリーを取り上げようと企てたのだ。



 かくも壮大なスケールのテーマにチャレンジしようと考えた作曲家は空前にして絶後ではないか。しかも、それがこのとき62歳に達していたハイドンだったとはまさに音楽史上の椿事に値しよう。



 今日のわれわれは宇宙や地球の生成から生命の進化、人類の出現までをさまざまなメディアで疑似体験しているけれど、18世紀の人々にとっては聖書の記述以外になんら具体的な手がかりはなかった。ガリレオが地動説を唱えて異端とされた過去と、ダーウィンの進化論が生物の系統発生を解き明かす未来とのはざまで、キリスト教世界の人々の脳裏にあった天地創造とはどんなものだったのか。そこに想像力を働かせないと、われわれはハイドンが心血を注いで取り組んだプロジェクトの意味に接近できないだろう。



 旧約聖書『創世記』を主題としたジョン・ミルトンの叙事詩『失楽園』(1667年)にもとづく英語劇を、ウィーン王室司書官のヴァン・スヴィーテン男爵がドイツ語に翻訳した台本に、ハイドンが約3年の歳月をかけて音楽をつけたオラトリオは、全三部からなり、演奏に2時間近くを要する大作だ。二管編成のオーケストラのもと、ガブリエル(ソプラノ)、ウリエル(テノール)、ラファエル(バス)の3人の天使と、アダム(バス)とエヴァ(ソプラノ)の男女、ならびに混声四部合唱のかけあいによってストーリーが進行していく。



 第1部では天地創造の1日目から4日目までが描かれ、暗黒の混沌を表す不協和音のうごめきのなか、突如、神の「光あれ!」の宣言とともに強烈な音響が轟きわたる。第2部は5日目と6日目で、大地と空と海はおびただしい生きもので埋め尽くされ、それらのオスとメスが賑やかに呼び交わすうち、最後に神の似姿につくられた人間が誕生する。第3部はその初めての人間のアダムとエヴァが手に手を取って、この世界に生まれでた喜びを高らかにうたう……。



 もとより、ハイドンの音楽によって当時の人々が体験したのは、これまでだれひとり見たり聞いたりしたことのない奇跡のドラマに他ならなかった。かれらは未曾有の感動に打ち震えながら、ステージの歌手たちやオーケストラと混然一体になって神への賛美を捧げたことだろう。ところが、である。そんなクライマックスの頂点で、ふいに天使ウリエルが言葉を差し挟むのだ。



 おお 幸いなる夫婦よ

 お前たちは 永遠に幸せである

 まちがった妄想が

 お前たちを誘惑せぬかぎり

 持てるものよりも 多くを望み

 定められたものよりも

 多くを知ろうとせぬかぎり

 (天野晶吉訳)



 すなわち、神にとっては天地創造の事業が完結を見たのであり、人間はさらなるものを求めてはならず、この楽園でただ無邪気に暮らしていけばいいとの通達だった。オラトリオはこうして「アーメン!」の大合唱とともに結ばれるわけだが、しかし、そのベースとなったミルトンの『失楽園』は、神の意思を聞き知った悪魔のひそやかな呟きをつぎのように伝えている。



 「それにしても、知識が禁じられるとは? そんな奇怪な、無法なことがありえようか? なぜ彼らの主は知識を与えることを惜しんでいるのか? 知るということが罪であり、死であるとどうしていえるのか? 彼らが罪に堕ちないのはただ無知のおかげだというのか? それが彼らの幸福であり、服従と忠誠の証だというのか? ああ、それにしても、彼らの破滅を謀るのにはこれこそまさに絶好の基盤だといわねばならぬ!」(平井正穂訳)



 なんと恐るべき策略! かくてヘビに姿を変えた悪魔に誘惑されるまま、アダムとエヴァは禁断のリンゴの実を口にしたことで楽園を追われ、人類は原罪を負って混迷の道へと足を踏みだしていった……。なぜハイドンはそこまでを描こうとしなかったのか? わかりきった話だ、それは人々にとって自分自身のストーリーなのだから。われわれもまた、ことここに至って想像力を働かせる必要がないのはいうまでもない。 




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とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍