広沢虎造 口演『清水次郎長伝 石松三十石船道中』

馬鹿は
死ななきゃなおらない


842時限目◎浪曲


堀間ロクなな


 藤田嗣治は太平洋戦争中、陸軍美術協会理事長に就任して戦争画を手がけたことで、戦後に批判を浴びせられ、日本美術界と縁を切って若き日を過ごしたパリへ渡った。そして、1955年、68歳のときにフランスに帰化して、カトリックの洗礼を受けてレオナルド・フジタと名乗り、パリ郊外のランス大聖堂の「聖母子像」などを描く。こうして人生の終盤をフランス人画家として送ったかれが、一方で、日本より広沢虎造の「森の石松」のレコードを取り寄せて、しきりに耳を傾けていたというから面白い。



 広沢虎造の「森の石松」とは、戦前から戦後にかけて活躍した不世出の浪曲師・二代目広沢虎造の代表作の『清水次郎長』シリーズのなかでも、最も人気を集めた『石松三十石船道中』のパートを指すだろう。わたしが小学生だった時分、子どもたちさえラジオやレコードで聞き知って、「江戸っ子だってねえ」「神田の生まれよ」「酒飲みねえ、寿司食いねえ」の浪花節を口真似したものだ。それは、戦争と復興に明け暮れた昭和の人々にとって、あたかも木漏れ日のような日本の原風景だったのかもしれない。



 清水湊の大ヤクザ、次郎長親分にじきじき命じられて、喧嘩は強いがおっちょこちょいの子分、森の石松が讃岐の金毘羅大権現へ出向くことになった。かつて因縁のある仇討ちにあたって願掛けしたことの御礼参りだ。滞りなく役目を果たした石松は、大坂の八軒屋から伏見に向かう三十石船に乗り込んだ。すると、江戸からやってきた旅人が清水一家の子分たちの品定めをはじめて、上記のやりとりをはさみながら、大政、小政、大瀬の半五郎、増田仙右衛門、法印大五郎、追分三五郎……と並べていくが、いつまでたっても自分の名前が出てこないのですっかりヘソを曲げてしまう。



 しょぼくれた石松が泣いて「だれかひとり忘れちゃいませんか」と迫ると、旅人はいちばん強いやつを忘れていたと気づいて、「神武このかた博奕打ちの数あるなかに、強いといったら石松っつぁんが日本一でしょうな」と談じたものだから、いっぺんに舞いあがる。ところが、その舌の根も乾かぬうちに「けど、あいつは人間が馬鹿だからね」といって、このごろは小さな娘でもこんな子守唄をうたっていると口ずさんだのだ。



 お茶の香りの東海道

 清水一家の名物男

 遠州森の石松は

 しらふの時はよいけれど

 お酒飲んだら乱暴者よ

 喧嘩早いが玉に瑕



 そこで、広沢虎造は一段とだみ声を張りあげて、



 馬鹿は死ななきゃなおらない



 わたしは今度、古いレコードからの復刻CDセット『広沢虎造』第二集(コスミック出版)で鑑賞したのだが、もし実演ならば、ここで聴衆は待ってましたとばかりにやんやの大喝采を送るはずだ。今日ではことわざのように流布しているこのフレーズは虎造の創意によるものという。かつて北海道へ巡業に出かけた際、青函連絡船で旅まわりの一座と乗り合わせて、座長が芝居でしくじったらしい若い役者に向かって放った罵声を耳にしたことがヒントになったとか。



 「馬鹿」



 この言葉を、わたしは「鹿を指して馬と為す」の中国の故事からきたものと信じ込んでいた。ところが、投稿サイトnoteで中国古典に関する該博な知見を披瀝されている泉聲悠韻氏によると、その説はかなり怪しいらしい。出典の『史記 秦始皇本紀』では、政治の権勢者が是非を転倒させてみせたエピソードとして取り上げられ、そこに愚か者の意味がないうえに、漢語由来なら「馬鹿」は「バロク」と読まなければ不自然とのこと。現在、最も有力なのは梵語(サンスクリット)由来説で、「無知」「愚昧」を意味するbakaやmohaが、漢語への音写で「莫迦」「募何」と表記され、日本語では「馬鹿」の文字を当てたという見方だそうだ。



 とするなら、「馬鹿」とは本来、愚か者を指すばかりでなく、古代インドから受け継いだ宗教的・実存的な観念までも呑み込んでいるのだろう。天才・藤田嗣治が晩年に至って「森の石松」を愛したのも、この浪曲に祖国の原風景を見るとともに、いまや異国の地で異国の人間として生涯を終えようとしているみずからの道行きを「馬鹿」と受け止める心境があったからではないか、とわたしは想像したくなるのである。   



一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍