ホフマン著『砂男』
ナタナエルは
魔法にかけられたように
841時限目◎本
堀間ロクなな
ドイツ・ロマン派の鬼才、E.T.A.ホフマンが1817年に発表した『砂男』は奇天烈な内容にもかかわらず、バルザック、ユゴーからドストエフスキーまでの文豪に注目されたばかりでなく、ドリーブ作曲のバレエ『コッペリア』(1870年初演)やオッフェンバック作曲のオペラ『ホフマン物語』(1881年初演)の舞台作品となって広く世間に流布した。現在、日本語訳は文庫版だけで3種(岩波文庫、光文社古典新訳文庫、創元推理文庫)を数えるから、この極東の島国においても時空を超えて多くの読者に受け入れられているのだろう。
主人公ナタナエルは幼いころ、母親からいつまでも寝ないと砂男がやってきて両目に砂をかけてえぐり取ってしまうという話を聞かされて以来、その幻影に悩まされてきた。そして、大学生となって物理学を学ぶいま、かれの下宿先にふたたび砂男の幻影が現れて一本の望遠鏡を売りつけた。つまり、視覚を奪う代わりに、逆に視覚を与えたのだった。ナタナエルは思い立って望遠鏡を自分が師事するスパランツァーニ教授の住まいの窓に向けたところ、そこに教授のひとり娘のオリンピアを見出した。池内紀訳。
このときはじめてナタナエルは彼女の見事な顔をみた。ただ目だけは奇妙に死んだようで一点を凝視したまま動かない。しかしナタナエルがレンズごしに一心不乱にみつめていると、オリンピアの目から月光のようなやわらかい光が射しはじめていくのだった。いまはじめて視力の火がともったかのようで、次第にその火が生きいきと燃えさかる。この世ならず美しいオリンピアの顔に見とれたまま、ナタナエルは魔法にかけられたように窓ぎわに突っ立っていた。
かくして、ナタナエルはオリンピアにいっぺんに恋してしまう。やがて教授からホームパーティの招待状が届くと、いそいそと出かけていって彼女に強引にダンスを申し込み、その氷のように冷たい手を取り、ぎくしゃくとした動きに戸惑いながらも、いっそう熱い思いに胸を焦がす。仲間の学生たちがそんな様子を見て、彼女は生身の人間ではなく、スパランツァーニ教授がこしらえた機械仕掛けの自動人形であることを語りあっても、かれは一切耳を貸さず、徐々に正気を失っていくのだった……。
果たして、こうしたストーリーがなぜ世界各地の人々の琴線に触れてきたのだろう? 精神分析学者フロイトも強い関心を掻き立てられたらしく、論文『無気味なもの』(1919年)のなかでこの作品をつぶさに分析したうえ、とくに砂男が目をえぐり取ることに着目して、つぎのように述べている。高橋義孝訳。
ところで、夢、空想、神話などを研究してみると、眼を失う不安や失明する不安は、しばしば去勢不安の代理となっていることがわかる。神話の犯罪者エディプスが、自分の手で自分を失明させるのは、贖罪法にしたがって彼に課せられることになっていた去勢の罰にたいする軽減にすぎない。こういうと人は、合理的な考え方から、眼の不安を去勢される不安に帰着させることを拒否しようとするかもしれない。〔中略〕しかしそう考えては、夢・空想・神話などに現われている男根と眼とのあいだの代理関係を正しく捉えたことにはならないし、男根を切りとるぞという脅迫にたいしてあの殊に強い深い感情が高まってきて、そしてこの感情こそはじめて、他の器官を失うという表象にも暗い反響を与えるのだという印象には抗しがたいであろう。
なるほど、ナタナエルを呪縛してきた砂男の恐怖とは「去勢コンプレックス」を意味し、それが自動人形のオリンピアへのやみくもな執着をもたらしたとするなら、昨今の若い男性たちがとかく生身の女性よりもアニメやゲームのヴァーチャル世界のキャラクターのほうに惹かれているかのような現象ともぴたりと重なりそうだ。
いや、待て。ことはそう単純な図式に収まるだろうか。というのも、一方で、わたしの目にはメディアに氾濫する若い女性のアイドルグループが原色のコスチュームをまとい、ぎくしゃくとしたダンスを披露して、ことさら自動人形を模しているように見えるからだ。ことによったら、女性たちもまた「去勢コンプレックス」を積極的に受け入れようとしているのかもしれない――。そんな疑問を抱きながら、ネット上であれこれの動画を検索していたところ、とんでもないものを見つけてしまった。
森高千里。
かつてバブル経済の絶頂期にあって、東京・秋葉原電気街がオタク文化の聖地として光り輝いていた当時、神田明神通りに面して山積みされたテレビの画面には、森高千里が華やかなミニスカートで『私がオバサンになっても』を歌い踊る姿がえんえんと映しだされていたものだ。その彼女が57歳のホンモノの「オバサン」となったいまなお美脚をあらわにしてパフォーマンスを繰り広げていたとは! まさしく日本社会に出現したオリンピアであり、わたしもナタナエルのひとりであったことを思い知らされた次第。
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