長谷川和彦 監督『太陽を盗んだ男』
「核の恐怖」の根底にあるのは
途方もない無意味さかもしれない
63時限目◎映画
堀間ロクなな
いつの間にか、核爆発や核戦争を取り上げた映画が見当たらなくなった。かつてわれわれの世代に、いますぐにも人類が滅びるような恐怖心と、だから明日に向けて努力したところではじまらないとのペシミズムを植えつけた、あのキノコ雲の映画たちはなぜ姿を消したのだろう。米ソの冷戦構造が消滅したことで、核の危険性が消滅したからとでもいうのか。まさか。
「核の恐怖」をテーマにした過去の映画のベストスリーをわたしが挙げるなら、『渚にて』(スタンリー・クレイマー監督/1959年)、『博士の異常な愛情』(スタンリー・キューブリック監督/1964年)と、長谷川和彦監督の『太陽を盗んだ男』(1979年)だ。さんざん『ゴジラ』の第一作(1954年)と迷ったうえで……。この3本のうち、前二者は世界規模の核戦争を取り上げたのに対して、後者はひとりの核爆弾マニアを描いた点で著しい対比をなしている。
ストーリーは至ってシンプルだ。しがない中学の理科教師(沢田研二)が東海村の原子力発電所からプルトニウムを奪って、自分の部屋でせっせと核爆弾を組み立てる。やがて完成すると、それをもって日本政府を脅迫するのだが、要求事項はプロ野球のテレビでの完全中継やローリング・ストーンズの来日公演の実現といったものでしかない。常軌を逸した犯人の逮捕に執念を燃やす警部(菅原文太)は教師を追いつめたものの、敗北を喫し、ついに時限装置がそのときが来たことを告げる――。
現在改めてこの映画を見直すと、だれしも首をひねりたくなるのではないか。こんな映画、作っちゃってよかったの? と。唯一の被爆国たる日本としては全世界に向けて声高らかに核廃絶を訴えるべきところ、いくら平和ボケとはいえ、ここまで不真面目な態度が許されるのか。主人公の教師にとって核爆弾は絶対悪の存在ではなく、あたかも恋人のような愛欲の対象らしい。だから、それによりみずから被曝したせいで抜け落ちた髪の毛を握りしめて恍惚とした表情を浮かべたりする。そして、「一体、何をしたいんだ、お前は?」と、核爆弾を相手に問いかけるのだ。
無意味。核をテーマにしながら、そこから意味を剥奪してしまったのが、この作品の意味だろう。今日、「核の恐怖」の根底にあるのは、途方もない無意味さかもしれない。その無意味さの前で、世界の政治は踊り、すべての人類の生命もまた踊らされている。しかも、われわれは無意味さに馴れて、もはや映画の題材にするのさえやめてしまったのではないか。とすれば、それこそ「核の恐怖」以上に恐ろしい事態だ。
核爆弾が、まるでラグビーボールのように見える。その争奪をめぐって教師と警部がビルの屋上で格闘したあげく、もつれあうようにしていっしょに転落していくシーンに、ついアメリカ大統領と朝鮮労働党委員長の姿を重ねて見てしまうのはわたしだけだろうか?
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