壺井 栄 著『二十四の瞳』
われわれが永遠に失ったものに
大石先生は涙を流してくれるのだ
145時限目◎本
堀間ロクなな
「海千山千」。その言葉と出会ったのは、おそらく壺井栄の『二十四の瞳』(1952年)が初めてだったはずだ。むろん、児童文学のつもりで読んだ当時は意味がわからなかったけれども。かつての教え子たちが恩師の大石先生を料理屋の座敷に迎えて、ビールで乾杯したあと、女将のマスノがため息交じりに洩らすのだ。「わたしらの組、お人よしばっかりじゃないですか。それが、男はみんなろくでもないめにあい、女は海千山千になってしもた」と――。
久しぶりにこの作品を読み返してみた。きっと泣けるに違いないとの予感どおり、通勤電車の満員の車中でも、昼飯を済ませたあとの社員食堂でも、どこであれページを繰るとたちまち涙腺がゆるむのには閉口した。もっとも、昔日のわたしは、大石先生が落とし穴で怪我をして学校に来られないのを慕って、子どもたちがはるばる訪ねていく途中で泣き出したり、そのあと先生の家できつねうどんをご馳走になってから、一本松を背にみんなで記念写真を撮ってもらったりという、有名な場面に感情移入したものだが、いまはそうした序盤のエピソードよりも、終盤のかれらが大人になった「海千山千」の場面のほうがずっと琴線に触れてくるのだった。
物語は瀬戸内海べりの寒村を舞台として、昭和3年(1928年)春に岬の分教場へ赴任してきた大石先生が12人の新入生の子どもたちと対面するところからはじまり、昭和21年(1946年)春に母校の教師となった早苗の尽力で大石先生が分教場の教壇に戻って、上記の歓迎会が開かれるまでの18年間の出来事を辿っていく。それは春夏秋冬に彩られ、日本のどこにでも見られるありふれた情景のはずだった。しかし、当初は男5人、女7人の生徒が24の小さな瞳を輝かせていたものが、太平洋戦争の非常時を経て男3人が戦死、女の1人が病死、もう1人は行方知れずとなり、最後に大石先生を囲んだのは男女7人で、うちソンキは戦傷で失明したため、12の瞳でしかなかった……。
この群像劇にあって、大石先生は受け身の立場にいる。野球に譬えるならキャッチャーとして、ピッチャーの子どもたちが投げてくるボールを受け止めながら、ともに笑い、ともに涙をこぼすのだ。そのなかのエース級が男では失明を負ったソンキであり、女ではマスノである。彼女が口にした「海千山千」とは、だれもが人生の道のりを歩むなかで身につけるものだろう。戦前から筋金入りのプロレタリア作家だった壺井栄は、この物語を月並みな反戦平和の道具にすることを避け、もっと普遍的なテーマとして、地べたに足を踏ん張って懸命に生きようとするふつうの人びとの宿命を見つめていると思う。
何も特別な非常時にかぎらず、われわれは星霜を重ねるにつれて、ひとりふたりと命を落とし、なお生きる者は否応もなく処世術がまとわりついて「海千山千」と化し、そのぶん、かつては澄みきっていたはずの瞳が濁りを帯びていく。それが人生の証だと百も承知しつつも、どこかでまだ純粋無垢だった過去を哀惜しないではいられない。だからこそ、いかに時代が移ろうともこの作品は読む者の心を揺さぶり続けるのだろう。
物語のラストは、昭和文学史上の屈指の名場面と言っていい。ビールの乾杯あと、マスノが座敷の床の間に用意しておいた一本松の記念写真をみんなが手から手へと受け渡して批評するうち、それが盲目のソンキにも手渡される。まわりが「ちっとは見えるかいや」と尋ねたのに、かれは笑って「目玉がないんじゃで」と応じてから「それでもな、この写真は見えるんじゃ」とひとりひとりを指して名前を呼び、その人差し指が少しずつずれていくのに、大石先生だけが「そう、そう、そうだわ」と涙を流しながら相槌を打つ。そして、かつて唱歌が得意だったマスノが手すりに寄りかかって「荒城の月」を歌いはじめた背中に、早苗がしがみついてむせび泣く……。
大石先生は、われわれが永遠に失ったものに涙を流してくれているのである。
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