めざせ、厚顔無恥の太っ腹ジジイ!
大人の自習時間 スペシャル「20年後の私の顔」
堀間ロクなな
わたしは20年後、80代に突入している。もし幸いにも無事過ごせるのであれば、せっかくの年齢を大いに味わいたい――。と、そんな心構えでいるわたしが不満に思うのは、人類の文化史上、こうした年代の精神世界を堂々と生きるための指針があまり見当たらないことだ。長寿に恵まれた偉大な芸術家たちでさえ、とかく加齢にともなって創作活動が鈍り、人生経験に見合った作品を残していないのが悩ましい。それだけに、イタリア・オペラの巨匠ヴェルディが80歳を迎える1893年に完成させた『ファルスタッフ』は、わたしにとってひときわ光り輝く存在だ。
前作の名品中の名品『オテロ』から6年の歳月を隔て、最後のオペラとなったこの作品は、シェイクスピアの喜劇『ウィンザーの陽気な女房たち』にもとづくアッリーゴ・ボーイトの台本に作曲したもので、全3幕の上演時間は正味で計2時間を超える。重厚な作風を持ち味として、これまで喜劇をほとんど手がけなかったヴェルディとすれば意表を突く異色作と言えるだろう。
ストーリーは単純明快だ。ウィンザーの居酒屋を根城にしているハゲでデブの老騎士ファルスタッフは、イロとカネの一挙両得をもくろんで、美貌で知られるふたりの夫人へ同時に同文面のラヴレターを届ける。当然ながらその魂胆は露見して、夫人たちはファルスタッフを懲らしめようと釣り竿を向けたところ、相手はあっさり食いつき、「行け、老いたるジョン、わが道を行け!」と密会の屋敷にやってきて、身を隠した洗濯籠から汚れ物もろともテームズ河に放り込まれてしまう。そんな痛い目に遭ったのち、われらがファルスタッフは性懲りもなく、ふたたび夫人たちの釣り餌に導かれるまま、今度は真夜中の公園で開かれる仮装パーティへとスケベ心丸出しで馳せ参じ、さんざんに嬲りものにされるという次第。
こうした終幕の茶番劇は、ざっと100年前のモーツァルトの『フィガロの結婚』や、20年後に現れるリヒャルト・シュトラウスの『ばらの騎士』とそっくりのご都合主義だけれど、それらの先輩・後輩のオペラと著しく異なるのは、ファルスタッフがついに一同に泣きを入れたあとで、オーケストラがおもむろに厳粛なフーガを奏ではじめるところだ。かの大バッハであれば神を賛美して教会のオルガンで大伽藍を築くのに用いた音楽形式にのって、こんな歌がうたわれる。
世の中すべて冗談だらけ
人間は生まれながらの道化師さ
誠実や知性なんてアテにならぬ
人間すべていかさま師
最後に笑う奴が本当に笑うのさ
およそ古今のオペラのなかで、ここまでひとを食った歌は空前絶後だろう。ファルスタッフばかりではない。巨漢の老騎士がバリトンで朗々とうたいあげるのに続いて、したたかで美しい夫人たちも、夫や子ども連中も、老若男女の村人も、すべての登場人物たちがつぎつぎに不遜な合唱に加わっていく。こんな野放図きわまりないフィナーレは、オペラの世界で百戦錬磨の人生を送ってきて、もはや80歳になろうとするヴェルディの他には決して書けなかったはずだ。
この場面を映像で観るなら、ヘルベルト・フォン・カラヤンが1982年にザルツブルク音楽祭でウィーン国立歌劇場のプロダクションを指揮した公演の記録がおすすめ。このとき帝王カラヤンが74歳、主役のファルスタッフに扮したイタリアの名歌手ジュゼッペ・タデイは67歳で、かれら老人パワーの炸裂ぶりを目の当たりにするたび、熱いものが込み上げてきて泣き笑いしないではいられない。そして、そっと自分に言い聞かせるのである。
わたしも20年後には厚顔無恥なスケベになって、あちこちの女に愛をばらまいてやり、もしも返り討ちに遭ったなら「世の中すべて冗談」と笑い飛ばす、そんな太っ腹ジジイをめざそう、と――。
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