スマナサーラ著『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』

自分の怒りを消すことから
悟りがはじまる


181時限目◎本



堀間ロクなな


 近年、テーラワーダ(上座部)仏教が熱心な注目を集めているようだ。その成り立ちを叙述するのはわたしの手にあまるけれど、ごくざっくりとこう理解している。紀元前5世紀にお釈迦さまが仏教を開いて80歳で入滅したのち、もともと口承で伝わっていた教えが文字の形で仏典にまとめられるにつれて広く伝播して、教団はいくつもの流れに分かれていく。とりわけ大きな分岐をもたらしたのは紀元前後の大乗仏教の勃興で、ここに仏教は世界宗教への発展段階に入り、中国大陸を経由して日本にも到来することになった。



 だが、地理的にも文化的にもはるか遠隔の地の日本では、おのずから信仰のあり方も変容し、やがて鎌倉仏教の隆盛を見るにおよんでお釈迦さまの本来の教えとはかけ離れたものと化しながら、21世紀の現在に至るまで連綿と命脈を保ってきた。その一方で、仏教がもう久しく同時代の混迷の精神状況に対してアクチュアルなメッセージを発信できずにいるとき、改めて大元の原点に立ち返ろうとする人々の眼差しが、大乗仏教以前にさかのぼるテーラワーダ仏教へ向けられたのも自然な成り行きかもしれない。



 このテーラワーダ仏教とは、かつて大乗(大きな船という意味)のサイドからは小乗と軽んじられた流れのひとつで、南方アジアを拠点として、初期の仏典にもとづきお釈迦さまの教えを忠実にいまに伝えているという。そして、ただの門外漢でしかないわたしにとってもひときわ魅力的に感じられるポイントは、悟りに到達するための道筋が明示されていることだ。従来の大乗仏教で悟りとは、たとえば中観やら唯識やらといった難解な哲学体系の果てに垣間見えたり、たとえば比叡山の千日回峰行のごとき決死の荒行によって体得できたりする秘儀のイメージがあるけれど、テーラワーダ仏教ではもっとふつうのだれもが実践できる営みと捉えているらしい。



 さっそく、スリランカ出身で日本テーラワーダ仏教協会長老のアルボムッレ・スマナサーラが著した『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』(2009年)をひもといてみよう。「スッタ・ニパータ」は古代インド語のパーリ語で書かれた最初期の経典で、お釈迦さまが説いた教えをストレートに反映していると見なされている。巻頭の「蛇の教典」は岩波文庫版ではほんの3ページほどに過ぎないが、この本ではパーリ語の原義に当たりながら200ページ以上をかけて解説してくれる。はじまりはこんな偈だ。



 ヨー ウッパティタン ヴィネーティ コーダン

 ヴィサタン サッパヴィサン ワ オーサデーヒ

 ソー ビック ジャハーティ オーラバーラン

 ウラゴー ジンナミワ タチャン プラーナン


 体に入った蛇の毒をすぐに薬で消すように、

 生まれた怒りを速やかに制する修行者は、

 蛇が脱皮をするように、

 この世とかの世をともに捨て去る。



 短気なわたしには耳の痛い内容だ。だれしも人生のなかで、金銭をめぐるトラブル、人間関係上のトラブル、精神的なトラブル……と、幾多のトラブルに出会うけれど、その苦しみから逃れたかったら、まずはそれらのほとんどが自分の怒りを原因としていることに気づかなければならない。猛毒の蛇に咬まれたらすぐに薬を注射して解毒するのと同じように、自分の心に怒りが湧いてきたときにはただちに消し去ることで、輪廻の呪縛から解き放たれて涅槃の境地へと一歩を踏み出せる。長老曰く、「怒りを瞬時に消すこと」ができるならば、それ自体が悟っている証拠なのです――と。



 これは最近流行りのアンガーマネジメントといった生活技術の話ではない、自分自身の世界と向きあう態度が問われているのだ。むろんのこと、言うは易く、おいそれと実行できはしまいが、そうだとしても、悟りが決して自分に手の届かないものではなく、時々刻々の怒りの感情を何分の一でも抑え込むように心がければそのぶんだけ近づけると思うと、いっぺんに気持ちがふくらむのではないだろうか?


一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍