ジョン・フォード監督『駅馬車』

最大のキイパーソンは
不機嫌な銀行家ゲイトウッドではないか


186時限目◎映画



堀間ロクなな


 かつて映画のビデオ・ソフトがまだ一般流通していなかった当時、テレビではよく映画の名場面を集めた番組が放映されたものだ。そうした機会に『駅馬車』(1939年)の、武装したインディアン(ネイティブアメリカン)の群れに追われて駅馬車が砂煙を立てながら疾駆するシーンを目にしては、一体、いつになったら全体を観られるのかと胸を焦がした。その念願がついに叶ったのは高校のころ、東京・立川市の場末の映画館で、途中フィルムが切れたりしたのもものかは、湧き上がる感動に震えながら続けざまに2回観たことを覚えている。



 さらにはその後、『駅馬車』のレコードを見つけて入手した。いわゆるサントラのたぐいではなく、LP2枚の表裏計4面に、映画の最初から最後まで約100分の音声がすべて収録されているという代物で、わたしは繰り返し耳を傾けた。くだんのインディアン襲撃シーンでは、およそ7分間にほとんど馬の足音と銃声しか入っていないのだけれど、それを聞きながら目の前に情景がありありと浮かんできたものだ。だから、いまでもこの映画を前にすると、セリフや効果音ができあいの音楽のように感じられて、まるでオペラを眺めている気分になってしまう。



 このジョン・フォード監督にとって初のトーキーの西部劇では、アリゾナ州トントからニューメキシコ州ローズバーグへ向かう一台の駅馬車が、あたかもアメリカ白人社会の縮図として描かれる。乗り合わせたのは、馭者、保安官、医師、行商人、銀行家、臨月の貴婦人、賭博師、娼婦、脱獄囚の9人。本来ならその日のうちに到着する行程だが、不穏な動向が伝えられるアパッチ族を避けるために遠まわりしたうえ、貴婦人がにわかに陣痛を起こして出産の運びとなったことで駅亭での宿泊を余儀なくされ、翌日、目的地までもうひと息という砂漠地帯でインディアンの凄まじい攻撃を受ける……。



 ところで、こうした波瀾の道行きをとおして乗客のあいだに強い連帯感が芽生えていくのだが、ただひとり、最後まで相容れない人物がいる。銀行家のゲイトウッド(バートン・チャーチル)だ。かれは自分が預かった鉱山労働者の給料5万ドルを持ち逃げして駅馬車へ乗り込み、道中では傲慢不遜な態度でなにごとにつけ文句をつけるというありさま。インディアンが襲ってきたときも「言わんこっちゃない、お前たちのせいだ」とわめき散らすものだから、医師が殴りつけて気絶させ、終点のローズバーグに到着して意識を取り戻したとたん待ち構えていた保安官に逮捕される。



 およそ魅力の欠けたこんな人物の存在理由は何か? ずばり、敵対するインディアンよりも人格的に劣った役まわりを設けるためで、それを巨体の白人男性に割り当てたところがフォード監督のしたたかさだろう。結果的に、脱獄囚のリンゴ・キッド(ジョン・ウェイン)以下の面々がインディアンに銃を放って殺戮しても、ありきたりの西部劇のように白人=善、インディアン=悪といった構図に収まらないばかりか、むしろ勇猛果敢なインディアンの姿が引き立って、さほど観る者にうしろめたさを感じさせない効果をもたらしているのだ。こうしたフォードの白人とインディアンを横断的に捉えようとする眼差しが『駅馬車』を古典にして、のちの『捜索者』(1956年)や『シャイアン』(1964年)へとつながっていくことを考えたとき、9人の乗客のなかで最大のキイパーソンはゲイトウッドではないかと思うのだが、どうだろう?



 ちなみに、この不機嫌な銀行家はアメリカ社会の現状に対してよほど憤懣やるかたない思いがあるらしく、他人の顰蹙を尻目にえんえんと演説をぶって「実業家を大統領にすべきだ!」とまくしたてる。もしいまの時代に生きていたら、さぞやトランプ大統領とウマが合ったに違いない。


一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍