ピーター・シェーファー著『アマデウス』
「凡庸な人々の守り神」
サリエリが告発したものは
196時限目◎本
堀間ロクなな
イギリスの劇作家ピーター・シェーファーの『アマデウス』(1979年)は、天才モーツァルトの殺害というスキャンダルが主題だけに、これまでことあるごとに世上の話題をさらってきた。俳優・江守徹の翻訳で日本語版(1982年)が出たときにはあちこちの書評に取り上げられ、わたしもすぐさま書店へ走り、同じ年に、その江守がモーツァルト、松本幸四郎(現・白鸚)が主役の宮廷楽長サリエリに扮して、東京・池袋サンシャイン劇場で行われた日本初演にもさっそく馳せ参じたものだ。
さらに、シェーファー自身の脚色により、ミロス・フォアマン監督の映画版(1984年)が登場すると世界的な反響を呼び、アカデミー賞の作品賞以下8部門に輝いたこともあって、今日では一般的に『アマデウス』と言ったらこちらを指すだろう。わたしがロードショー公開に駆けつけたことは言うまでもないが、ただし、あえて古都プラハでロケされたという絢爛豪華な歴史絵巻の魅力は十分認めたうえで、本来の哲学的な「暗殺劇」として映画版は舞台版にとうてい及ばないと思う。
たとえば、映画版ではサリエリがモーツァルト殺害を表明しながら、せいぜいモーツァルトの家庭教師の口を邪魔したり、その亡父レオポルトに似せた仮装で相手を恐懼させたり……といったふうで、まあ、褒められた所業ではないにせよ、何も生命のやり取りと見なすほどのことはない。クライマックスでは、オペラ『魔笛』を上演中に昏倒したモーツァルトをサリエリが自宅まで送り届け、ベッドに横たわったモーツァルトが口述するのにしたがってサリエリが楽譜に筆写する形で『レクイエム』の作曲を進めていく。そうしたふたりの共同作業のありさまは、加害者と被害者というより、たがいに愛憎を分かち合うホモセクシャルな関係を匂わせるほどだ。
ところが、舞台版の該当個所はまったく様相を異にする。モーツァルトが書き上げた『レクイエム』の楽譜をサリエリは二つに引き裂くのだ。モーツァルトが怯えた顔つきで「どうして……? 出来がよくないんですか?」と訊ねると、サリエリは「よく出来ている」と応じてから、楽譜の端をちぎって口に入れ咀嚼しながら続ける。
「私が食べるのは、神が与えてくれたものだ。彼の毒を、一服また一服、一生続けて。私たちは二人とも毒を盛られてしまったのだよ、アマデウス。私にはお前という毒が。お前には私という毒が。(中略)神にとって、もはやお前は無用の存在なのだ。――お前は弱過ぎる。――病に冒され過ぎている! もう、お前なんぞ用済みだ! 今お前に出来ることは、ただ死ぬことだけだ! そして神はまた別の楽器を見付けるだろう! お前のことなどは思い出しもしないだろう!」
恐怖のあまりモーツァルトは赤ん坊の状態に返ってしまい、妻コンスタンツェに抱えられ「サリエリがぼくを殺したんだ」という訴えを残して息絶える。暗転。それから32年後、老いたるサリエリは自分の部屋にあって、私は決して忘却の彼方に追いやられたくない、そのために最後にもうひとつ策略を講じたとして、スキャンダルの都ウィーンに自分がモーツァルトの暗殺者であるとの噂を流したことを告げ、観客に向かってこう問いかける。
「親愛なる皆さん、これで彼らは皆、はっきりと知るでしょう! ぞっとするような私の死を聞き知るでしょうし、私の嘘を永久に信じるでしょう! 今日より以後、人々が愛をこめて、モーツァルトの名を口にする時は必ず、私の名を嫌悪の情で語ることでしょう! 彼の名が世界中に知れ渡れば、渡るだけ、私の名も同じように知れ渡る――たとえ名声でなかろうと、少なくとも悪名高くはなる。結局は私の名も不滅となるでしょう!」
そして、神にはそれを妨害する力がない、と嘲笑い、みずからを「凡庸な人々の守り神」と傲然と言い放つ。モーツァルト暗殺の噂は人々の耳をそばだて、ベートーヴェンのノートにも書き留められたけれど、結局、だれも真に受けなかったことを伝えて芝居は終わる。だが、まだ幕が引かれたわけではなかろう。まさにこの『アマデウス』の出現によってこそ、サリエリの名が忽然とよみがえって世界じゅうに轟きわたったのだから。と同時に、モーツァルトだけではない、おそらくは数かぎりない天才たちが「凡庸な人々の守り神」の手によって抹殺されてきたことがここに暴かれ、たとえ知らなかったふりをしたところで、われわれも共同正犯ではないのかという告発を突きつけて、この恐るべき「暗殺劇」は真の大団円を迎えるのだ。
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