滝田洋二郎 監督『おくりびと』
「新しい生活様式」のもとで
死との向きあい方を考えるヒントに
198時限目◎映画
堀間ロクなな
直葬、と称するらしい。故人を見送るにあたって通夜も告別式も省略して、最期の床から遺体を棺に移してそのまま火葬場へ運ぶというやり方。最小限の労力と費用で済むことですでに流行りはじめていたところへ、今度の新型コロナウイルスの襲来が見舞い、故人が感染症で亡くなった場合はもとより、たとえそうでなくても会葬の「三密」を避けるという大義名分により、こうした直葬のニーズがにわかに高まっているそうだ。
言うまでもなく葬儀とはプライヴェートな営みであって、各々がどのような形で行おうとも傍がとやかく口をはさむいわれはない。そうと承知したうえで、家族葬、密葬、一日葬……と、どんどんコンパクトになっていく風潮のもと、ついにこれ以上ない直葬に辿り着いた成り行きには戸惑いを覚えてしまうのだ。今日の社会生活全般と同様に、われわれの死との向きあい方までもコンビニ化するばかりでいいのだろうか?
滝田洋二郎監督の『おくりびと』(2008年)は、主役をつとめた本木雅弘の強い意欲によって実現したといわれている。それだけに、かれの渾身の演技もあって大きな反響を呼び、国内の各種映画賞を総なめしたばかりか、アカデミー賞外国語映画賞の栄誉にも浴した。ところがどうだろう、あれだけ拍手喝采を博したのち、あっという間に顧みられなくなったのではないか。ウィキペディアによれば、この作品が2009年9月に初めてテレビの地上波で放送されたときは21.7%の高視聴率を記録したものの、2012年1月の2回目の放送では3.4%に急落したという。ことによると、この間に生じた東日本大震災がわれわれの死生観を変容させたのかもしれない(さらには、大震災をきっかけに、スマホが急速に普及したことと葬儀の簡素化に拍車がかかったことのあいだにも関連が?)。
ストーリーは至って平明だ。主人公の青年・小林(本木)は所属先のオーケストラが解散となってチェロ奏者の仕事に見切りをつけ、妻(広末涼子)とともに故郷の山形県に帰ってきたもののおいそれと働き口はなく、新聞で見かけた社員募集の広告に誘われて出向いてみると、そこは葬儀で遺体に湯灌や死に化粧を施す納棺師の会社だった。妻には仕事の内容を隠したまま、風変わりな社長(山崎努)のリードでさまざまな死と向きあっていくうちに、少しずつその意義を見出していく……。以降、お約束どおりの感極まる人間模様が繰り広げられて、わたしは声をあげて泣きじゃくってしまうのだけれど、それはともかく注目したいのはつぎのポイントだ。
若い小林は、自分の仕事について「冷たくなったひとをよみがえらせ、永遠の美を授ける」といったふうに非日常の儀式と受け止め、あたかもその司祭としての役回りの重みを理解しようとする。ところが、社長のほうはまるで違う。やがて事情が妻にばれて、そんな汚らわしい仕事は即刻辞めるよう懇願された小林は退職を伝えに赴く。すると、社長はフグの白子を炭火で炙りながら食事中で、小林にも勧めて「これだってご遺体だよ。生きものが生きものを食って生きている。食うなら旨いほうがいい。どうだ、旨いだろ?」と尋ね、頷いた相手に「旨いんだよなあ、困ったことに」と笑う。すなわち、社長にとって死と向きあうことは、食事をしたり排便をしたりするのとなんら変わりのない、当たり前の日常の営みなのだ。この仕事が好きかどうかもない、授けたのが永遠の美かどうかもない、ただ目の前の死と真摯に向きあえばいい、と――。
だれにとっても人生の最大のイベントは、この世へやってくることと、この世から去っていくことのふたつだ。これからウィズ・コロナの「新しい生活様式」が求められるなかで、葬儀においてもむやみに規模を誇るわけではなく、また、たんにコンビニ化だけがまかり通るのでもなく、本人にも家族にも納得がいく死との向きあい方を考えるときに、この映画は貴重なヒントとなるのではないだろうか。かく言うわたしも先年、身内の故人を見送った際にベテランの女性納棺師の世話になり、その背筋のぴんと伸びた挙措がいまも瞼に焼きついている。
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