3・11の後を生きるように、新型コロナの後を生きよう

                               黄 文葦

3・11東日本大震災が十周年。2011年3月11日を忘れられない。 

2011年3月11日の午後、筆者が勤めていた日本語学校では卒業式が行われていて、校長先生が壇上で生徒の名前を読み上げ、卒業証書を渡していたところで、今までに経験したことのないような揺れが襲来…卒業式はとてもしっかりした建物の5階で行われていたにもかかわらず、巨大なシャンデリアが激しく揺れていた。 

地震の経験のない留学生たちは、少し圧倒され、先生たちも少し落ち着かない様子だったので、誰かが「早く階段を降りろ」と叫んで(地震の時はエレベーターが使えない)、みんなで階段に向かってスクランブルした。 

それでも秩序は保たれていて、押したり引いたりすることはなかった。ハイヒールを脱いで裸足で走る女の子もいた。一階のオープンスペースで集まって数分後、揺れが止まったかのように見えて、そこで、卒業証書授与式がまだ終わっていないので、全員が5階に戻って卒業式を続けた。 

年老いた校長先生が、厳粛な声で一人一人の生徒の名前を再び演壇から読み上げる。しかし、しばらくすると、また建物が激しく揺れ始め、みんながまた下に駆け下りてきた… 数分後に皆が再び会場に戻ってきて、校長が生徒の名前を読み続け… 揺れがまた激しくなって、再び下へ …このような上下に数回往復して、最終的には、学生全員が卒業証書を授与され、大地が揺れている間に卒業した。 

実際、地震の時は、地震の深刻さもわからず、卒業式を完成させる一心で、何とも言えない高揚感で走り回っていた。卒業式の後、みんな携帯電話でニュースを見て、津波が襲ってくる映像を見てから、言葉を失ったほど衝撃を受けた。 

震災の夜、都内の電車や地下鉄が全て止まってしまい、同僚がゆっくり運転して家まで送ってくれた。その時、車の窓から外を見たら、周りに歩いている人ばかりで、道は混雑しているのが、世界はとても静かであった。人々は何か特別な任務に向かっているようだが、実際、人たちの願いはただ一つだろう、「家に帰ろう!」という願望。どんなに遠くまで歩いても、家の方角に行こう… 

2011年3月11日の日本人の行動から、「意志力」「回復力」「弾力」が見えた。その時、「日本のために、私ができることは何だろう」と繰り返し自問した… 

2014年の春、筆者はボランティア団体の方と一緒に福島第一原発の10キロ圏内と仙台若林区荒浜に行った。福島第一原発の周辺の誰もいない広い土地に、除染作業の後に残された黒い袋と見られるものが並べられた景色を今でも鮮明に記憶している。 

その際、津波で多大な被害を被った仙台荒浜海辺の小屋で、「震災前と震災後」というテーマの写真展があった。かつてにぎやかできれいな街並みを持っていた海岸が、津波で何もかも流された… 

2017年の夏、筆者は気仙沼へ行った。街のいたるところに貼られている「海と生きる」のポスター。被災地の人々は海を恨んではいない。どんな時も自然を愛し、海と共に生きていこうという思いを感じた。被災地への思いやりは、3月11日一日に限定しないようにしてほしい。被災地復興の感動を日本だけではなく、世界中に広がってほしいと願った。 

被災地の旅で、人々が「ご縁」と「ご恩」を大切にし、災害史・災害文化を大事にしていることが分かった。震災地の「復旧」は不可能だ。新しい道を進んで復興するしかない。

今、新型コロナが世界に大きな変化をもたらしている。私たちは新型コロナの前に戻れないだろう。3・11の後を生きるように、新型コロナの後を生きよう。 

一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍