村上春樹 著『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』
予言された
ウクライナ危機
400時限目◎本
堀間ロクなな
発端は、ウクライナで見つかったという謎の骨。そこから世界終末の物語が説き起こされるのだ。第一次世界大戦のさなか、ウクライナ戦線でロシア軍の兵士が塹壕を掘っていると、額の中央に一本の角を生やした奇妙な動物の頭骨を発見した。しかし、やがてロシア革命の勃発により研究もままならず、伝説の一角獣が実在したことを示す唯一の証拠とされながら、今度は第二次世界大戦の独ソ戦の業火に見舞われて、いつしか骨は行方知れずとなってしまった。それがいまの時代にふたたび出現して、世界の終わりを告げようとする……。
村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年)の、こうした導入部を眺めただけでも、現下のロシア軍によるウクライナ侵攻が引き起こした状況と二重写しになって不気味なほどだ。
ストーリーは、東京に住む「私」が地下に広がる闇の領域に踏み込んだことですったもんだの騒動に巻き込まれる「ハードボイルド・ワンダーランド」のチャプターと、山の麓の周囲を高い塀で囲まれてわずかな人間と多くの一角獣が群れる街で「僕」がその頭骨に秘められた記憶を読んでいく「世界の終り」のチャプターの、双方が縄を綯うように往き来しながら進む。そのうち、「ハードボイルド・ワンダーランド」の「私」が否応もなく終末に向かって押し流され、どうやら終末のあとを新たに生きはじめたのが「世界の終り」の「僕」らしいとわかってくる。つまり、世界の終末とは世界が消えてなくなることではなく、自分の脳がこの世界との接点をすべて失って、それまで意識下の領域に仕舞い込まれていた別の世界の扉が開くことだと明かされるのだ。この奇想天外な構図が伝えようとするものは一体、なんだろう?
ウクライナ危機をめぐっては、当初から核戦争へと拡大する可能性に激しく警鐘が鳴らされてきた。すでに国民を核シェルターに避難させる準備をはじめた国々もあって、世界唯一の戦争被爆国・日本の落ち着きぶりがかえって異様に見えるほどだが、それはともかく、実際に核攻撃が起きるとしたら、地上のあらゆるものを焼き尽くして放射能汚染にさらすのではなく、目的地の上空数十キロメートルにおける高高度核爆発というやり方らしい。こうすると地上への直接的な破壊力は小さいながら、強大な電磁パルスがすべての電子機器を使用不能にしてしまうため、結局、自然や都市の構造物は無傷のままで人間の生活だけを危殆に陥れることができるという。すなわち、自己を取り巻く世界は存続するものの、その世界と対峙する内面のほうが不可逆的な変異を強いられるわけで、それはまさに「ハードボイルド・ワンダーランド」の「私」が「世界の終り」の「僕」へと移行したプロセスではなかったか。
間もなく世界と訣別する宿命に対して、「私」はこんな述懐をする。おそらく作中で最も美しい文章だろう。
「いったい私は何を失ったのだろう? と私は頭を掻きながら考えてみた。たしかに私はいろんなものを失っていた。細かく書いていけば大学ノート一冊ぶんくらいにはなるかもしれない。(中略)しかしもう一度私が私の人生をやりなおせるとしても、私はやはり同じような人生を辿るだろうという気がした。何故ならそれが――その失いつづける人生が――私自身だからだ。私には私自身になる以外に道はないのだ。どれだけ人々が私を見捨て、どれだけ私が人々を見捨て、様々な美しい感情やすぐれた資質や夢が消滅し制限されていったとしても、私は私自身以外の何ものかになることはできないのだ」
しかし、刻一刻とタイム・リミットが迫ってきても、「私」はぶらぶらと散歩したあとにゲーム・センターでビデオ・ゲームに興じるぐらいしかやることがない。そのかれの目に映ったのは――。
「川を渡って攻めこんでくる戦車隊を対戦車砲で殲滅させるゲームだった。最初のうちは私の方が優勢だったが、ゲームが進むにつれて敵の戦車はレミングの大群みたいに増えて、結局は私の陣地を破壊した。陣地が破壊されると画面が核爆発みたいに白熱光でまっ白になった」
わたしは生唾を呑んでしまった。昨今テレビがしきりに報じているウクライナの戦場の光景そのものではないか。この小説が発表された当時、ただのファンタジーとして読んだものが、40年近くの歳月が経ったいまになって、思いがけず厳しく哀しい顔つきを浮かび上がらせてきたのだ。たんなる偶然なのかもしれない。だが、ときにこうして現実のほうが小説を模倣しはじめるという、そんな作家の予言の力をどこかで感じているから、われわれは小説を読み続けるのではないだろうか。
かくして、もし『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の描くどんでん返しの結末が、ウクライナ危機の向かう先を示唆しているとしたら?
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