ニーチェ著『この人を見よ』
だれにも訪れる
通過儀礼を前にして
469時限目◎本
堀間ロクなな
咄嗟に、どう反応したらいいのかわからなかった。電車のなかで目の前の座席にすわっていた女性が「よろしければ」と腰を持ち上げかけたのだ。人生初の経験である。わたしの目には、こちらとさほど年齢差があるようにも見えない。会社で面倒な仕事を済ませたあとの帰りだったから、くたびれた顔つきがマスク越しにも伝わったのだろうか。いや、ことによると、吊革につかまってニーチェの自伝など開いていたせいで、何やら危うげな印象を与えたのかもしれない。
ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェに、風変わりな自伝があることはよく知られている。その『この人を見よ』が執筆されたのは1888年の秋、44歳のときで、翌年のはじめに精神錯乱の発作を起こし、11年後に世を去るまで狂気の闇のうちに過ごしたから、これが事実上の遺作となった。タイトルは新約聖書の『ヨハネによる福音書』の、ローマから派遣された総督ピラトがイエス・キリストを指して口にした言葉に由来し、本文は「なぜわたしはこんなに賢明なのか」「なぜわたしはこんなに利発なのか」「なぜわたしはこんなによい本を書くのか」……といった章立てからなる。
こうした構成からも想像がつくとおり、内容は臆面もない自画自賛に埋め尽くされたものだ。人類の文明史が袋小路に迷い込んだいま、未来に向けてあらゆる価値の破壊・転換のために、自分という存在がどれだけ重大かを滔々と弁じたてるありさまには、だれしも呆気に取られてしまうだろう。しかし、その困惑が過ぎ去ってみると、どうやら暴力的なまでの形而上学を支えているのは、実のところ、無邪気な精神の躍動であるらしいことに気づいて微笑ましくなるのだ。
発達心理学によれば、小学校低学年ぐらいまでの幼児が自己中心的なのは、まだ人間の老いや死を理解していないからだと聞いたことがある。病気や事故などに遭わないかぎり永遠に生き続けると受け止めていて、それが自我の肥大化をもたらすというのだが、このはなはだ尊大な自伝においても、老いや死についての洞察を欠いたまま「永劫回帰」の世界観が振りかざされたりするのには、こうした幼児の心理構造と重なるものがあったのではないだろうか。だが、そんなニーチェも最終の「なぜわたしは一個の運命であるのか」の章では、天真爛漫な息づかいが影をひそめ、痛ましいばかりに切迫感を漲らせた文章となってくる。
「『彼岸』とか『真の世界』とかの概念は現に存在する唯一の世界を無価値にするために――この地上の現実のための目標も、理性も、課題も一つとして残しておかないようにするために、発明されたものだ! 『霊魂』や『精神』、さらに『不滅の霊魂』といったような概念は、肉体を軽視し、それを病的に――『神聖に』――するために、人生において真剣に扱うべき一切の事柄、すなわち栄養・住居・精神的健康法・病者の看護の仕方・清潔・天候などの諸問題にぞっとするような軽率な態度をもって対処するために、発明されたものだ!」(手塚富雄訳)
こんなふうにさんざん毒づいてみせたあげく、唐突に「わたしの言うことがおわかりだったろうか?――十字架にかけられた者 対 ディオニュソス……」と結ばれるのだ。これを文言どおりに解読すれば、ギリシアの酒神に託した自分自身をイエス・キリストと対置させることで、復活から永遠の生に至るヴィジョンを示したわけで、ともかくもみずからの哲学に老いと死が侵犯することを徹頭徹尾拒みとおしたのはアッパレと言うべきだろう。たとえ狂気と引き換えにしたとしても。
あの車中で座席を譲られかけたとき、わたしはこうした書物に読み耽っていただけに、いくぶん気分が高ぶっていたのかもしれない。せっかくの女性の申し出に対して、思わず「どうして?」と応じてソッポを向いてしまったのだ。まことに大人げなかった。しょせん、だれにも必ず訪れる一種の通過儀礼と見なすべきだったろう。とうていニーチェの潔さに敵うはずもないわが身であれば、電車のなかでつぎの機会に出くわした際には、もはや老いと死に近づきつつあることを認めて謹んで受け入れようと考えているのだが、果たしてできるかどうか……。
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