梶井基次郎 著『檸檬』
黄金色の爆弾が
表すものは果たして?
559時限目◎本
堀間ロクなな
わたしが通った中学校の英語の授業では、いつも教師がオープンリールのデッキを運んできてアメリカの流行歌をかけてくれ、試験の課題には歌詞の暗唱や書き取りが出されたりした。こうしてボブ・ディランの『風に吹かれて』やマイケル・ジャクソンの『ベン』、アンディ・ウィリアムズの『ゴッドファーザーの愛のテーマ』などとともに出会った曲に、ピーター・ポール&マリーの『レモンの木』があった。父親が息子に向かって「女性の愛を信じてはならない」と教え諭す歌の、さかんに繰り返されるサワリの部分はこんなふうだ。
Lemon tree very pretty and the lemon flower is sweet
but the fruit of the poor lemon is impossible to eat.
レモンの木はとても可愛らしく、レモンの花は甘い香りがするけれど、お粗末なレモンの実は食えたものじゃない――。なるほど、レモンの実は薄切りにしたり汁を搾ったりして味つけに使うことはあっても、まるごと口にすることはあるまい。女性の愛もそういうものなのだろう、と中学生のわたしは受け止めたのだった。
だからだろう、後年、梶井基次郎の『檸檬』を初めて読んだときにも、ここに描かれたあまりに有名なレモンもまた、女性の気まぐれな愛のメタファーと理解した。その思い込みはいまだに尾を引いているのだが、おかしいだろうか?
梶井はレモンにまつわる作品を三つ残している。まず、1922年(大正11年)に『秘やかな楽しみ』と題した詩で、京都の三条通麩屋町にあった書店、丸善の洋書棚の本を積み重ね、その上にレモンをのせる情景を詠っている。ついで、1924年(大正13年)に小説『瀬山の話』に取り組んで未完に終わったものの、そのなかのレモンを題材にしたパートを取りだして書き改め、翌年元日発行の同人誌『青空』に発表したのがくだんの『檸檬』だ。一体、こうした経緯の背後にはどんな事情があったのだろう。
梶井の年譜によると、みずから期するところがあり猛勉強して第三高等学校(現・京都大学)の理科甲類に入学したが、やがて結核を発症して休学のやむなきに至る。やり場のない焦燥に駆られるなかで次第に行動が不穏を帯びていき、1921年(大正10年)、20歳の年の10月に泥酔して初めて遊郭へ上がり「筆おろし」の体験をすると、そのあとも乱行を重ねながら、一方で自己に嫌悪感を抱く心境から『秘やかな楽しみ』が生まれた。やがて、特別及第によりかろうじて卒業したものの、将来の展望が開けないまま相変わらず享楽的な生活のもとで綴られたのが『瀬山の話』だった。ここでは、少年時代の失恋をきっかけに芸者通いに興じるようになった瀬山という知りあいを設定して、女性との愛の不毛と絶対的な寂寥を描こうとしたのだが、前記のとおり、『檸檬』のパートだけを独立させて作品に仕上げたのだ。
それにともなって主人公は「瀬山」から「私」に変更され、果物屋の店先でレモンを目に止めると「一体私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウの絵具をチユーブから搾り出して固めたやうなあの単純な色も、それからあの丈の詰つた紡錘形の格好も」と述懐して、ひとつだけ買い求めたうえでこう続ける。
「その檸檬の冷たさはたとへやうもなくよかつた。その頃私は肺尖を悪くしてゐていつも身体に熱が出た。事実友達の誰彼に私の熱を見せびらかす為に手の握り合ひなどをして見るのだが、私の掌が誰のよりも熱かつた。その熱い故だつたのだらう、握つてゐる掌から身内に浸み透つてゆくやうなその冷たさは快いものだつた」
かくして、「私」はそのレモンひとつを着物の袂に入れて、気がついてみれば丸善の洋書棚の前に立っていた。そして、お気に入りのアングルの分厚い画集やら何やらを手当たり次第に積み上げ、てっぺんに恐る恐る黄色い果実を置いてみる。
「見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の諧調をひつそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまつて、カーンと冴えかえつてゐた。私は埃つぽい丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ変に緊張してゐるやうな気がした。私はしばらくそれを眺めてゐた。〔中略〕変にくすぐつたい気持が私を微笑ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛て来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだつたらどんなに面白いだらう」
熱く火照った全身を冷やしてくれるもの、同時に、われわれの知性をいっぺんに吹き飛ばしてしまうもの。それこそが女性の愛の神秘であり、決して男どもには手の届かない魔性の正体ではないだろうか。実のところ、読み手はこうした気配をうすうす感じ取っているからこそ、発表から1世紀を経たいまもなおこの小さな作品に魅了されているのだと思う。
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