マーク・トウェイン著『トム・ソーヤーの冒険』
トランプ前大統領は
トム・ソーヤーなのか?
604時限目◎本
堀間ロクなな
腕白。男の子が世間の規範をものともせず、自由奔放に振る舞うことを意味するこの言葉は、かつてごく当たり前に使われていたはずだ。それがいつの間にかさっぱり見聞きしなくなったのは、少子化社会にあってもはや死語となりかけているのだろうか?
マーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』(1876年)が少年の日のわれわれを魅了したのも、そこにはめくるめく腕白の世界が繰り広げられていたからだろう。光り輝く真夏の季節、主人公のトムは友人ハックルベリー・フィンらと海賊ごっこでミシシッピー川の砂州に野営したり、大昔に盗賊が隠したはずの秘宝を探しにおばけ屋敷へ忍び込んでホンモノの悪党どもと出くわしたり……と、いかにもアメリカ大陸と極東の島国のあいだのスケールの差に圧倒されたとはいえ、男の子たちの胸をひたすら高鳴らせることでは相通じるものがあったのだ。
ところが、である。最近あらためて読み返してみたところ、どうやらそうひと筋縄では済まないらしいと知った。小学生のころは気にも留めなったこんなエピソードに戸惑ったからだ。
ある日、トムは養母のポリーおばさんに、家のまわりを取り巻くフェンスのペンキ塗りを命じられる。それはざっと高さ3メートル、全長30メートルにわたって横板を組み立てたもので、かれは白ペンキのバケツとブラシを手に作業をはじめたものの、すぐに嫌気が差してしまった。そこへ友人のベンがやってきて「お前、仕事させられているのか?」とからかうのに、トムは勿体ぶって「まあ、仕事といえば仕事かもしれないし、仕事じゃないといえば仕事じゃないかもしれないな」と応じて、「好きでやっているんだよ。だって、フェンスのペンキ塗りなんて、そうそうやらせてもらえる仕事じゃないだろ?」と告げると、相手は「ぼくにもやらせてほしい」と言って代わりにブラシをふるいはじめた。そのベンがへばったころ、ついでビリーが、さらにジョニーも同じようにみずからペンキ塗りを望んで、とうとうトムは自分の手を煩わせずに厄介な仕事を仕上げてしまった。この世もそんなに捨てたもんじゃないや……という感慨に浸りながら。
いかがだろう? こうしたトムのやり口は、日本人のわれわれが腕白に対して抱くイメージとはかなりギャップがあるのではないだろうか。あまつさえ、そこへわざわざマーク・トウェインそのひとが割り込んできて、こんなふうにのたまうのだ。
「自分でも意識しないままに、トムは人間の行動原理に関わる重大な法則を発見したのだった。すなわち、大人でも子供でも何かを欲しくてたまらない気持ちにさせるには、それを手に入れにくくしてやりさえすればいい、ということである。トム・ソーヤーがこの本の著者のように偉大にして聡明なる哲学者であったならば、『労働』とは人がやらねばならぬことであり、『遊び』とは人がやらなくてもよいことである、という理論に到達したはずであり、ひいては、造花を作るとか踏み車を踏むといった行為が何ゆえ労働であり、10本のピンを倒すとかモンブランに登るといった行為が何ゆえ遊びにすぎないのかを理解するようになったであろう」(土屋京子訳)
このご託宣は一体、どこまで本気なのか冗談なのか?
わたしは首を傾げながら、ハタと思い当たったのである。ドナルド・トランプ前大統領が在職当時、メキシコからの非正規難民の流入防止を目的として、大変な意気込みで国境沿いに全長450マイル(724,2キロ)にもおよぶフェンスの建設に取り組んだことを――。おそらく世界じゅうの人々が馬鹿馬鹿しいと笑った代物について、そこには「(ねばならぬ)労働」ではなく「(なくてもよい)遊び」の無邪気さがあったゆえに、アメリカ国民にかぎっては大いなる価値を認めることにつながったのではないか。だとするなら、トランプ前大統領とは実のところ、150年の年月を経ていまにトム・ソーヤーの腕白を受け継ぐ存在なのかもしれない。
そして、かれが返り咲きをめざす今秋(2024年)の大統領選挙で眼前に立ちはだかろうとしているのは、『トム・ソーヤーの冒険』の牧歌的な世界とは縁もゆかりもない、ルーツをまったく異にするカマラ・ハリス副大統領というのも歴史の必然なのだろう。さて、その対決の結果やいかに?
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