オッフェンバック作曲『天国と地獄』

そのステージでは
「世論」と「蝿」が大活躍して


605時限目◎音楽



堀間ロクなな


 フランス・オペレッタ史上最大のヒット作といわれる『天国と地獄(地獄のオルフェ)』には、およそ他の歌劇では目にすることのないふたつのキャラクターが登場する。そのひとつは「世論」だ。幕が開くなり彼女(貫禄のあるメゾ・ソプラノ歌手によって演じられる)はステージでこんな口上を述べる。



 「私はだれでしょう? ギリシア劇のコーラスの代役をつとめる『世論』です。いわば世間の良識の立場で、ときには祝福したりときには呪詛したりして、ドラマの進行に一役を担います。殿方ならびに奥方には、よもや相手を裏切ろうなどとされたら許しませんよ!」



 “シャンゼリゼのモーツァルト” ことジャック・オッフェンバックの手になる『天国と地獄』が世に現れたのは、1858年。英雄ナポレオン・ボナパルトの甥、ルイ=ナポレオンが皇帝の座に就いた第二帝政下のブッフ・パリジャン座のことで、そのころ、革命前に60万人ほどだったパリの人口がすでに100万人を突破していた。さらにはまた、鳴りもの入りで開催されたパリ万国博覧会(1855年)には世界各地からざっと520万人が押し寄せるという、雲霞のごとき大衆の熱気のなかでこの作品は誕生した。となれば、かれらの形成する「世論」が大手を振ってドラマの前面に躍りでたのも、むべなるかな。



 内容は、夫が死んだ愛妻を地獄まで迎えにいくというギリシア神話の有名なエピソードのパロディだ。こちらでは、夫オルフェ(オルペウス)と妻ユリディス(エウリュディケー)の関係はとっくに冷え切って、おたがいに新たな人生を目論んでいたのだが、くだんの「世論」が断固として承知しないという次第。スキを見て地獄の主プリュトン(プルートーン)と出奔したユリディスのあとを追って、オルフェもいやいやながら地獄に向かう羽目になる。一方、天上の主神ジュピテール(ゼウス)は見目麗しい人妻のウワサを聞きつけるとスケベ心に駆り立てられ、退屈のあまり反乱を起こしかねないオリュンポスの神々を引き連れて地獄へと出かける。



 かくして、他ではまず見かけることのないもうひとつのキャラクターが登場する。「蝿」だ。なんと、ジュピテールはこの虫に姿を変えてプリュトンの屋敷に忍び込み、ユリディスの誘惑に取りかかるなり、彼女はさっそく妖しい声をあげるのだ。



 「まあ、なんて可愛らしいの。金色の羽がステキ!」



 実際のステージでは、ジュピテール役のバリトン歌手が頭部に触覚を生やし背中に二枚羽をつけて扮装するので、さほどの意外性はないけれど、わたしは初めてレコードの録音だけに接したとき、オッフェンバックの巧みな音楽に誘われて、臈長(ろうた)けた美女と「蝿」がいちゃつきあいながらエクスタシーへと昇りつめていくシュールな光景がありありと眼前に浮かびあがって、腹の皮がよじれるほど笑い転げたことを覚えている。もとより、ここにおいても花のパリに群がり集まった夥しい人口の存在があったればこそ、その残飯や排泄物を糧とする「蝿」に大役が降って湧いたのだろう。



 ついにジュピテールが正体を明かすとユリディスは有頂天になって、「世論」に後押しされながらはるばるやってきたオルフェを尻目に、ふたりは手に手を取ってこれからの道行きを契りあう。そして、あのだれもが聞き知っているはずの「カンカン」の音楽が轟きわたるなか、オリンポスの神々と地獄の連中がいっしょになって、こんな歌を合唱して果てしない乱痴気騒ぎを繰り広げるのだ。それはまさしく大衆社会の到来を飾るにふさわしいフィナーレであった。



 「人生を知る者よ、地獄へ来たれ!」



 ところで、先般、内閣府が実施した「離婚と子育てに関する世論調査」によると、夫婦の一方または双方が離婚を望んでいるときに、離婚をしたほうがいいと回答したのは、夫婦に未成年の子どもがいない場合で85.5%、子どもがいる場合でも59.3%にのぼったという。すなわち、もし『天国と地獄』に令和の日本の「世論」が登場したならば、ハナから諸手を上げてユリディスを地獄へと送りだすのに違いない……。



【追記】

 わたしのおすすめの『天国と地獄』のソフトは、マルク・ミンコフスキが指揮したリヨン国立歌劇場のライヴ映像(1997年)のDVDです。ユリディスに扮したナタリー・デッセイ以下の芸達者な歌手たちのめくるめく舞台を楽しめます。




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とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍