北野 武 監督&森谷司郎 監督『首』
見てはならないものを
見てしまった不安の正体
606時限目◎映画
堀間ロクなな
「この世の人間全部血祭りに上げたるぞ。その最後に、自分の首を落とすとスッキリするだろうな」
北野武監督の『首』(2023年)において、天正10年(1582年)6月、京都・本能寺で織田信長(加瀬亮)が能『敦盛』を眺めながらつぶやくセリフだ。その数時間後、明智光秀(西島秀俊)の軍勢が攻め寄せると、燃えあがる炎のまっただなかで信長は寵愛する森蘭丸の首を斬り落とし、宣教師から譲り受けた黒人の弥助の手によって首を斬り落とされる。全編にわたってだれが味方でだれが敵かも定かならず、ひたすら血なまぐさい首のやり取りが繰り広げられていく映画の象徴的なシーンだろう。果たして、信長は予言のとおりスッキリしたのかどうか。
これまで「暴力」のテーマを追求してきた北野監督の総決算ともいうべき、この酸鼻きわまる戦国絵巻に圧倒されてしまうと同時に、何か見てはならないものを見てしまった、そんな不安に襲われるのは決してわたしだけではないだろう。
実は、日本映画史上にもうひとつ同じタイトルの傑作がある。森谷司郎監督の『首』(1968年)だ。戦前から戦後にかけて人権派の弁護士として名を馳せた正木ひろしの実体験にもとづくストーリーはこんなふうに展開する。
戦時下の昭和19年(1944年)1月、茨城県・長倉村の小さな炭鉱で主任をつとめる奥村登が花札賭博の容疑で逮捕された直後、大崎警察署の留置場で息を引き取った。死因は突発的な脳溢血とされたが、鉱山主の滝田静江(南風洋子)は取り調べ中の暴行を疑い、ツテを介して正木弁護士(小林桂樹)に調査を依頼する。当初はごく簡単な事案と踏んでいたものの、その眼前に東京控訴院の田代検事(神山繁)が立ちはだかり、当局の検死ですでに脳溢血の結論が出ているとして門前払いを食わされてしまう。
ときあたかも中国大陸や太平洋で多くの将兵が戦死を遂げている時世にあって、炭鉱夫ひとりの死因などかまっていられないといった空気が立ち込め、鉱山関係者や遺族もこれ以上にことを荒立ててシッペ返しを受けるのは望まないとするなか、正木だけは敢然と真相の究明に立ち向かう。そのクライマックスは、東大法医学教室による再鑑定を目論んで、解剖専門の雇員を連れて現地の長倉村の寺へと出かけ、そこに土葬されている奥村の首を切断して持ち帰ってくる行程だ。当時の刑法では、警察の許可を得ずに墳墓を発掘したり、死体を損壊・遺棄したりすれば重罪に処せられかねないながら、寒冷地とはいえすでに死後10日あまりが経過して検死のためにはもはや一刻の猶予もないという事情に駆り立てられての決断だった。しかし、正木を動かしていたものはそれだけではなかったようだ。
「腐りかけているのは奥村の死骸じゃない。このままでは、このままでは、ぼくの、ぼくの体や心が腐っていく……」
その心中にはもはや狂気に近いものが宿っていたのだ。無謀な行為は幸いにも成功して、再鑑定の結果、奥村の死因が脳溢血ではなく警察署での暴行によるものだったことが証明されて、世間に「首なし事件」として大々的に知れ渡ることになった。まさに正木弁護士の不屈の闘志が勝利してストーリーは結ばれるのだが、森谷監督と橋本忍脚本のコンビが仕立てたラストシーンでは、正木の表情がいつまでも狂気を引きずって醜く歪み、わたしはやはり見てはならないものを見てしまったような……。
あらためて考えてみると、首とは人体にあっていかにも奇妙な部位だ。その人物のアイデンティティが集約されているにもかかわらず、本人はそれをじかに見ることができない。せいぜい鏡や写真に映った二次元の像という、実物とは似て非なるものを確かめられるぐらいだ(女性はそのギャップを十分計量して化粧しているのだろう)。すなわち、われわれは他者の目をとおしてしか自己のアイデンティティが保証されないという不条理のもとにあるわけで、その根底にはとめどない不安がわだかまっていることを、これらの映画は暴きだして目の前に突きつけてくるのではないか?
もしその呪縛を解き放とうとするなら、北野監督の『首』のラストシーンのほうがヒントになるだろう。監督自身の演じる羽柴秀吉が、信長の弔い合戦に勝利して、戦場に残されたおびただしい首を集めてきてつぎからつぎへと、光秀のものかどうか首実検をするのにほとほとシビレを切らす。そして、いきなり立ち上がると、足元の首をサッカーボールのように蹴り飛ばしてこう叫ぶのだ。
「首なんかどうだっていいんだ!」
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