十返舎一九 著『東海道中膝栗毛』

江戸の戯作者と
文豪ドストエフスキーの共通項は


607時限目◎本



堀間ロクなな


 忘れもしない、大学で新谷敬三郎教授のロシア文学の講義に初めて出席したときのことだ。あのころ新谷教授といえば、ミハイル・バフチンのドストエフスキー論やロシア・フォルマリズムの論文集をいち早く翻訳・紹介して斯界の第一人者の地位にあり、きっとエキサイティングな所説に接することができるだろう、と固唾を呑む思いだった。すると、痩身長躯の教授は口をへの字にしてこんなふうに語りはじめたから、わたしは座席から転げ落ちそうになった。



 「ドストエフスキーとは、ロシアの十返舎一九みたいなもんですな」



 まさか。あの『東海道中膝栗毛』の弥次さん喜多さんの珍道中が小学生向けの笑い話ともなっている江戸の戯作者と、ロシアの大文豪がどうして同列に並べられるのだろうか? それだけを言い放って細かい説明を加えなかった教授には、ドストエフスキーやトルストイに心酔しているケツの青い学生連中に対して、とりあえず蹴りを入れてやろうといった思惑だったのかもしれない。以来、この言葉が宿題のようにアタマの片隅にこびりついてきたのだが、ようやくおぼろげながら答えが見つかった気がするのだ。



 ドストエフスキーと十返舎一九の共通項のひとつ。19世紀にそれぞれの国の市場経済が勃興してくる時期に、どちらも都市を拠点として、原稿料や印税といった執筆活動の収入だけで生計を成り立たせる職業作家の先駆けとなり(したがって、つねに困窮と背中合わせの生活を送った)、世間の多くの読者を獲得するために作中には「笑い」の要素をふんだんに取り入れた(ドストエフスキー作品のこうした性格については、前記のバフチンの論考が詳しい)。



 もうひとつ。そんなかれらの筆が描きだそうとしたのは、市場経済の荒波に押し寄せる社会の諸相であり、カネと愛欲に翻弄される人々の姿であった。江戸時代晩期の享和年間から文化年間にかけて大衆的人気を博した滑稽本『東海道中膝栗毛』(1802~14年)も、こうした観点から眺めることによって陰翳の濃いドラマが浮かびあがってくるような気がする。一例を挙げてみよう。引用部分は岩波文庫版にもとづく。



 江戸の神田八丁堀の住人、弥次郎兵衛と喜多八のコンビがお伊勢参りの旅に出て、2日目に小田原で宿を取ったときに、喜多さんが五右衛門風呂に下駄履きで入って釜の底を抜いてしまい大騒ぎになった。この小学生向けのダイジェスト版にも必ずのっている有名なエピソードのあとに続く場面で、喜多さんが修理代として二朱銀を支払わされてしょげていると、弥次さんは「かまをぬいて二朱では安い」と男色遊びに引っ掛けて冗談に紛らわしたのち、実は間もなく宿の女中が忍んでくる手筈になっていると言いだす。



 「さつき手めへが湯へはいつている時、げんなまでさきへおつとめを渡しておいたから、もふ手つけの口印までやらかしておいた。なんときついもんか。へへへへへへ」



 あらかじめ現金を渡して手つけの接吻まで済ませたのだから大したものだろう、と威張ってみせたわけだ。その弥次さんが便所に立ったすきに、喜多さんはその女中を呼び止めて耳元にこんなことを囁く。



 「コリヤアないしようのことだが、あの男はおへねへ瘡(かさ)かきだから、うつらぬよふにしなせへ。〔中略〕足は年中鴈瘡(がんがさ)で、なんのことはねへ、乞食坊主の菅笠を見るよふに、所々に油紙のふたがしてある。それに又アノ男の胡臭(わきが)のくさゝ、そのくせひつこい男で、かぢりついたらはなしやアしねへ。めんよふアノかさつかきといふものは、口中のわるくさいもので、おいらもならんで飯をくうさへ、いやでならねへがしかたがねへ。おもいだしてもむしづがはしる。ペツペツ」



 読んで字のごとく、腹癒せにさんざん罵詈雑言を並べ立てたという次第。かくして、弥次さんは事情がわからないまま空しい一夜を過ごす羽目に……。たんなるコントと見なすには度の過ぎた、野放図なふたりのやりとりには、ドストエフスキー作品においてカネと愛欲をめぐってとめどなく饒舌を繰り広げる奇怪な登場人物たちと重なるものがあるのではないだろうか?



 ついでにもうひとつ、つけ加えておきたい。十返舎一九は、天保2年(1831年)9月に67歳で息を引き取るとき、「此世をば どりやおいとまに せん香と ともにつひには 灰左様なら」の辞世を残した。それからちょうど50年後の1881年1月、59歳のドストエフスキーは、末期の床で妻アンナに向かって「もう3時間ほどずっと考えていたんだけれど、きょうぼくは死ぬよ」と告げたという。みずからの死を恬淡とした態度で迎えたこともまた、このふたりの作家に共通するものだったらしい。



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とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍