バッハ作曲『ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ』
フランスのふたりの
女性奏者が奏でたものは
648時限目◎音楽
堀間ロクなな
ヨハン・ゼバスティアン・バッハほど、その楽曲がさまざまなアレンジによって演奏されてきた作曲家はいないだろう。しかも、どのようなアレンジであっても、そこに紛れもなくバッハそのひとの顔を見て取れるのは、まさに「音楽の父」の貫禄だろう。こうしたアレンジのなかで、わたしは最近出会ってすっかり魅了されてしまったのは、『ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ』をフランスのふたりの女性奏者、ミシェル・オークレール&マリー=クレール・アランがヴァイオリンとオルガンの組み合わせで演奏した録音(1956~57年)だ。
全6曲からなるこのソナタ集は、バッハがケーテンの領主レオポルト侯のもとで宮廷楽長をつとめていた時期(1717~23年)に手がけられ、旋律楽器のヴァイオリンばかりでなく、通常は伴奏にとどまりがちなチェンバロにも独奏楽器の役割が与えられて、双方が対等に自己主張しあいながらアンサンブルを形成していくものとなっている。4楽章編成の第1番から第5番までと、5楽章編成の第6番の、それぞれが独自の興趣をたたえて、わたしはこれまでバッハ演奏の大家シェリング&ヴァルヒャの威風あたりを払う演奏や、時代考証を踏まえたゲーベル&ヒルによる闊達きわまりない演奏に親しんできたが、上記のオークレール&アランによるアレンジ版を耳にして、あたかも楽曲の面貌が一新されるような印象を受けたのだ。
その最も端的な例を第4番のソナタに見ることができる。この曲は、1720年7月、バッハがレオポルト侯に随伴して旅行中に、従妹で愛妻のマリア・バルバラが4人の子どもを残して急死したことへの、やり場のない悲しみと罪悪感を滲ませて書かれたという。したがって、第1楽章に、後年の大作『マタイ受難曲』(1727年)のなかの有名なアルトのアリアとそっくりな旋律が出現するのも偶然ではないのかもしれない。
憐れみたまえ
わが神よ、わが涙のゆえに!
イエス・キリストの弟子ペテロは、イエスの捕縛後、周囲の問いかけに対して3度にわたり師との関係を否認したところで鶏が鳴き、最後の晩餐の席でイエスが予言したとおりの結果となったことを知って泣き崩れる。このアリアは、そんなかれの胸のうちをうたったものだ。みずからの心の弱さを見つめ、悲しみと罪悪感に打ちひしがれながら、その救済を願った切実な祈りの歌だが、これをオークレール&アランの演奏で聴くと、宗教的な雰囲気にとどまらず、もっと生々しい息づかいが迫ってくるのだ。それは、チェンバロのパートを同じ鍵盤楽器であってもより色彩が豊かなオルガンに代えたことだけが理由ではなく、どちらもまだ30代前半にあった女性プレイヤー同士のアンサンブルであることにも起因しているのではないだろうか。
というのも、わたしはイングマール・ベルイマン監督の『仮面/ペルソナ』(1966年)を観たときの衝撃を思い浮かべずにはいられないからだ。この映画では、ギリシア悲劇を上演中に突如、失語症になった舞台女優(リヴ・ウルマン)と付き添い看護婦(ビビ・アンデショーン)が療養のために海辺の別荘で過ごす日々が描かれるのだが、それぞれが自己の抱え込んだ悲哀を奏でながら、めくるめくアンサンブルを織りなして、ついには両者の人格がひとつに溶けあってこんな言葉を交わすに至るのだ。
「無」
どうやら、みずからの心の弱さを見つめた切実な祈りも、結局はのっぺらぼうの空虚へと行き着いてしまったらしい。果たして、これをレズビアンの光景と受け止めたらいいのかどうか、わたしには判断がつかないけれど、確かに自己なるものを外へ発散させようとする男性と、内へ沈潜させようとする女性とのあいだの相違が横たわっているような気がする。オークレールのヴァイオリンとアランのオルガンによるアンサンブルからもまた、およそ男性のプレイヤーには真似できない、こうした実存的な深淵へと手を差しのべていく大胆不敵さが伝わってくるのだ。そして、そこでもやはり紛れもなくバッハの音楽が屹立しているのである!
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