藤井道人 監督『ヴィレッジ』

日本の地域社会を
成り立たせている原理とは


649時限目◎映画



堀間ロクなな


 もし映画に「感動」を求めるなら、おそらく藤井道人監督の『ヴィレッジ』(2023年)には肩透かしを食らうに違いない。この作品が観客から呼び起こそうとするのは「理解」だからだ。われわれの暮らす日本の地域社会は、どのような原理のうえに成り立っているのか、と――。映画は、そのシミュレーションのために差し出されたモデルと見なすべきだろう。



 舞台は、緑濃い山間部にある霞門(かもん)村。古くから住民たちが薪能を演じてきた奥床しい土地柄だったが、20年ほど前に巨大なゴミ処理場を建設する計画が持ち上がり、村を二分した対立のなかで反対派の急先鋒が殺人を犯したあげく、自宅に火を放って自殺を遂げた。その「犯罪者の息子」のユウ(横浜流星)が主人公だ。かれは現在、皮肉にもかつて父親が懸命に阻止しようとしたゴミ処理場につとめ、その社長を兼ねる村長(古田新太)の息子、トオル(一ノ瀬ワタル)の配下としてゴミの分別作業をしていた。もとより、村を脱出したい気持ちは強かったものの、父親の死後、酒とギャンブルに溺れた母親の借金に縛られてとうてい思うに任せなかったのだ。



 そこへ、幼馴染みのミサキ(黒木華)が10年ぶりに東京から戻ってきて、ゴミ処理場の広報責任者に就任した。実は、ここでは県の内外から集めた膨大なゴミの焼却の他に、ひそかにヤクザが持ち込む産業廃棄物の不法投棄にも携わって利益をあげていたのだが、それを知らないミサキのプランによって「霞門環境センター」の看板で世間に打ち出すにあたり、ユウがPRマンの役を仰せつかる。次第に広報活動が成果を挙げていくにつれ、ふたりは深く愛しあう仲に。ところが、かねて横恋慕していたトオルが力づくでミサキを奪おうとしたためユウと格闘になり、ミサキの手にした鋏がトオルの首筋に刺さって息の根を止めると、ふたりは死体を車で産業廃棄物の投棄場所へ運ぶのだった……。



 さて、こういったストーリーの流れから、冒頭に掲げた設問、日本の地域社会(以下、映画のタイトルに合わせて「ヴィレッジ」と呼ぶ)を成り立たせている原理について、いくつかのポイントを抽出してみたい。



〇ヴィレッジにあっては、人々は国家の法律よりも、そこでの波風の立たない秩序のほうを優先する。だから、産業廃棄物の不法投棄では作業員たちが露見を恐れながらも当たり前のように給金を受け取るし、また、ユウとミサキのカップルも自分たちの日常を脅かしたトオルを始末したことにほとんど罪の意識を持たない。



〇ことほどさように、ヴィレッジの秩序の根底にあるのはカネや性の欲望だが、外向けにはあくまで美辞麗句を弄して憚らない。ゴミ処理場のPRとなったユウが、テレビの取材に対して「霞門村は多様性を尊重し、未来に進むことを諦めません。環境と伝統が共存する村、それが霞門村です。今後も循環型社会や地球温暖化の防止に向けた村づくりが重要だと思っています。みなさん、ぜひ霞門村に遊びに来てください」と弁じたとおり。つまりは、日本列島のあちらこちらでさかんに「多様性」や「循環型」が持ち出されるのは、それだけ後ろめたい事情がひそんでいるからだろう。



〇ヴィレッジでは、人権や生命がきわめて軽い。ユウとミサキはイザとなったら躊躇わずにトオルを殺害・遺棄したし、トオルの叔父の刑事(中村獅童)がその死体をゴミ処理場から掘り出すと、実父の村長はユウに向かって「お前らがやったんだな。まあ、そんなことはどうでもいい。ウソはどうとでもつける。それより、ふたりでこの村を建て直そう」と言い出す始末。ついては「ミサキに犠牲になってもらおう」と口にしたところで、ユウは逆上して相手を絞め殺して屋敷に火をつけた。かつての父親と同じように。ヴィレッジにおいては人権・生命の無残なやりとりが際限なく反復していくのである。



 こうして映画をモデルにシミュレーションしてみると、どうやら炙りだされてくるのは地域社会の原理だけではなさそうだ。ヴィレッジというものを、自民党の派閥やら、兵庫県庁やら、大阪地検やら、東京女子医大やら、フジテレビやら……にも当てはめて眺めることができるように思うのだが、どうだろうか?  

一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍