中原中也 著『子守唄よ』
もうひとつの
「汚れつちまつた悲しみに」
650時限目◎本
堀間ロクなな
ひっきょう、中原中也はただ『汚れつちまつた悲しみに……』(1930年)のみによって近代文学史上屈指の人気詩人となったのではないか。こうした言い方が乱暴に過ぎるようなら、では、この一篇がもし存在しなかったとすると、他のどの作品の詩人としてわれわれの記憶にとどめられたろう、と問い直してもいい。
汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる
こうやってはじまる詩が、中也18歳のとき、同棲していた女優のタマゴの長谷川泰子が友人の小林秀雄のもとへ去ってしまったという経緯から誕生したことはよく知られている。以来ざっと1世紀後の今日まで、失恋の痛みを知る青春期の男女にどれほど共感をもって口ずさまれてきたことだろう。そんな運命に弄ばれながらも、中也は小林秀雄との交友関係を保ち、また、長谷川康子がさらに別の男性の子どもを生んだ際には名付け親となり、こうした作者の心底にひそむ優しさが読者の胸を打つのかもしれない。
一方で、このあと遠縁にあたる上野孝子と結婚して長男・文也を授かった中也は、そうした人生の幸福のなかで特段の作品を残していない。どうやら、この詩人はひとえに「喪失」に反応して、遊具のシーソーに譬えれば、自分と相手が均衡して落ち着いているあいだは鳴りをひそめ、その相手が失われてバランスが崩れたとたんインスピレーションを発揮させるらしい。かくして、中也の前に決定的な「喪失」が訪れる。1936年11月、長男・文也が小児結核のため2歳で落命したのだ。
母親はひと晩ぢう、子守唄をうたふ
母親はひと晩ぢう、子守唄をうたふ
然しその声は、どうなるのだらう?
たしかにその声は、海超えてゆくだらう?
暗い海を、船もゐる夜の海を
そして、その声を聴届けるのは誰だらう?
それは誰か、ゐるにはゐると思ふけれど
しかしその声は、途中で消えはしないだらうか?
たとへ浪は荒くはなくともたとへ風はひどくはなくとも
その声は、途中で消えはしないだらうか?
母親はひと晩ぢう、子守唄をうたふ
母親はひと晩ぢう、子守唄をうたふ
淋しい人の世の中に、それを聴くのは誰だらう?
淋しい人の世の中に、それを聴くのは誰だらう?
この『子守唄よ』という詩が書かれたのは、文也が身まかった翌年の5月中旬のころと推定されている。激しいショックのせいで精神衰弱をきたし、絶え間ない幻視幻聴に見舞われた中也は、千葉県の精神病院で1か月半ほど過ごしたのち退院して、小林秀雄が住む鎌倉に引っ越していた。この年の10月には30年の人生を終えることになる中也には、すでに死の予感があったはずだから、作中で亡き子どものためにひと晩じゅう子守唄をうたい続けるのは、文也の母親であるとともに、自分自身の母親でもあったろう。いまやかれの胸中では、母親たちの子守唄を背に受けて、文也と自分が彼岸でひとつになることだけが願われていたのではないか。
わたしにとってはあまりにも痛切な、詩人・中原中也が残したもうひとつの「汚れつちまつた悲しみに」の絶唱と受け止められるのである。
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