モーツァルト作曲『魔笛』
子どもたちは
その真意を知っている
652時限目◎音楽
堀間ロクなな
モーツァルト最後のオペラ『魔笛』には、よほど関心を引き寄せるものがあるらしい。これだけ論議の的になってきた作品は、モーツァルト自身の他のオペラを含め、古今東西のあらゆるオペラを見渡しても存在しないだろう。ベートーヴェンやワーグナーといった同業者ばかりでなく、ゲーテ、ヘーゲル、ショーペンハウアー、アドルノ、ブロッホ……といったコワモテの知識人たちまでが取り上げてきた。その最大の要因は皮肉にも、モーツァルトのあまりにも素晴らしい音楽に対して、台本の矛盾がわれわれの欲求不満を誘うところにあるようだ。
舞台は、いつの時代のどことも知れない国。第一幕では、大蛇に追われて登場した王子タミーノが気絶し、夜の女王に仕える3人の侍女が大蛇を退治したあとに、鳥刺しのパパゲーノがやってくる場面からはじまる。そこに夜の女王が出現して、娘のパミーナが悪魔ザラストロにさらわれた悲しみをうたいあげ、タミーノとパパゲーノはそれぞれ魔法の笛と鈴を授かって奪還に向かうことに。怪しげな神殿へ辿り着いてみると、いましも黒人奴隷にエッチされかかったパミーナを助けて脱出しようとしたところに、ザラストロが立ちはだかるのだが、かれの正体は愛と徳を支配する神官で、悪魔は夜の女王のほうでパミーナをそのもとから救い出したという事情が判明する。すなわち、第一幕の終わりでいきなり善玉と悪玉が入れ替わってしまうのだ。そして、第二幕では、ザラストロの差し金により、タミーノとパミーナはフリーメーソン流のしかつめらしい試練を受けて真の人間に生まれ変わり、また、パパゲーノも恋人パパゲーナと出会って……。
ことほどさようにツッコミどころ満載のストーリーについては、さかんに非を鳴らされてきたわけだけれど、へそまがりのわたしは首をかしげたくなるのだ。この台本の作者はモーツァルトの親友にして、ウィーン郊外で大衆劇場を経営する興行主シカネーダーで、当時流行っていた複数の物語からいいとこ取りしてデッチ上げたものだといわれるが、だとしても、このオペラの成否に命運を賭けていた以上、決していい加減な仕事ではなかったろう。
こんなふうに考えてみたらどうだろう? シカネーダーの劇場がおもな対象としていたのは王侯貴族やブルジョアジーなどではなく、貧しくとも陽気で賑やかな市井の庶民たちだった。したがって、この『魔笛』も宮廷歌劇場で上演されるイタリア語の格式張った演目とは異なり、ドイツ語のセリフを交えた大衆的なシングシュピール(歌芝居)の形式によって、子どもでも気軽に楽しめるように工夫された結果が、こうしたいかにも場当たり的なストーリー展開をもたらしたのではないか、と――。
わたしが思い起こすのは、1970~80年代に一世を風靡したテレビ番組『8時だョ! 全員集合』だ。毎週土曜の夜、ザ・ドリフターズが全国各地の劇場・ホールで子どもたちを対象として行ったショーを中継放送したもので、毎回、リーダーのいかりや長介が「オッス!」と声を張りあげると、子どもたちも威勢よく「オッス!」と応じるところからスタートする。ついで、コント仕立ての舞台では、たとえば張りぼての大蛇がメンバーの背後に迫ってきて客席を阿鼻叫喚の騒ぎにさせたあと、ゲストの女性アイドル歌手がゲームで下着をチラつかせたり、志村けんが卑猥なポーズのダンスを披露したりして、しばしばPTAが抗議の声を挙げたのもそれだけ子どもたちの心を掴んだからだろう。最後は『ビバノン音頭』にのせて、加藤茶が「勉強しろよ!」「風邪引くなよ!」といった教訓を垂れて結ばれて、それはまさに昭和日本の『魔笛』の光景だったのに違いない。
もし『魔笛』の第一幕が「母性原理」、第二幕が「父性原理」を象徴し、両者の対立・葛藤のドラマとして捉えるならば、それは子どもたちもよく知っている世界だ。あれほど優しかった母親が突然逆上したり、まるで頼りなかった父親がふいに威厳を発揮したり……といった経験を味わってきて、かれらリアリストは自分を取り巻く大人たちのアイデンティティなどハナから信用せず、たとえ善玉と悪玉が引っ繰り返ったとしてもなんの矛盾も見て取らなかったろう。そのうえで、モーツァルトが託した真意を受け止めて、ただひとり首尾一貫して天真爛漫に生きている自然児パパゲーノのアリアに思いを寄せたはずである。
パパゲーノはお姉ちゃんが欲しいな
かわいい娘ならなお嬉しいぜ
飲み食いだって王様気分
人生楽しく天国みたいだ
(小宮正安訳)
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