井伏鱒二 著『山椒魚』

映画『ザ・ホエール』を
手がかりに読み解いてみる


657時限目◎本



堀間ロクなな


 井伏鱒二のデビュー作『山椒魚』(1929年)は謎めいた作品だ。動物たちによる寓話の形式ゆえに親しみやすく、長らく国語の教科書にも採用されてきて、日本近代文学の古典の地位を占めている観があるものの、じゃあ、その主題は何かと問われたら口ごもってしまうのではないか。それは読者のわれわれだけでなく、作者本人も晩年に至って「習作の一つ」と位置づけ、肝心の終結部分をバッサリ削除したくらいだから、どうやら作品に対して明確なパースペクティヴを見出せていなかったことでは同じだったらしい。



 だとしても、この小さな物語を一度でも読んだ者はだれしも、皮膚のざわつくようなインパクトを受け止めるのも事実だろう。その正体とは?



 ことさらこうした設問を立てたのは、最近、『ザ・ホエール』(2022年)というダーレン・アロノフスキー監督の映画と出会ったからだ。わたしの目には、その構図が『山椒魚』と二重写しになって映り、しかも現代のアメリカを舞台として、山椒魚ならぬ鯨をタイトルに冠するだけに、ずっと大ぶりなストーリーによって双方に通底する主題を示してくれているように見えるからだ。そこで、あくまでひとつの実験的な試みとして、この映画を手がかりに『山椒魚』を読み解いてみたい。



 主人公のチャーリー(ブレイダン・フレイザー)は体重272㎏の肥満体で、身動きもままならず、アパートの部屋から外へ出ることなく、大学のオンライン授業の講師をなりわいとしている。8年前に妻と幼い娘がいながら、教え子の男子学生と恋に落ちて出奔し、その同性愛の相手が自殺を遂げたことから異常な食欲に取り憑かれ、いまや重度の鬱血性心不全で死期が迫りつつあった。そんなかれのもとに、愛人だった男子学生の妹で看護師のリズ(ホン・チャウ)が通って面倒を見ていたが、いくら入院治療を勧めても断固拒むのだった。この薄暗い、じめじめとして、悪臭を放つ部屋こそ自分の世界だとして。



 「いよいよ出られないといふならば、俺にも相当な考へがあるんだ」



 『山椒魚』において、からだが発育したせいで住み処の岩屋から出られなくなった山椒魚はそんなふうにうそぶく。チャーリーと山椒魚は、積極的であれ消極的であれ、みずから生きる範囲を極限したことにより、自分が世界のささやかな一員でしかなかったものが反転して、世界のほうがささやかになり、自分は曲がりなりにも支配者との認識に立ったことを意味しよう。



 その小世界にあって、山椒魚の身辺には目高(めだか)、小蝦(こえび)、蛙がやってくるごとく、チャーリーの身辺にも入れ替わり立ち替わり、リズのほか、キリスト再臨派の宣教師、8年ぶりに再会した高校生の娘エリー(セイディー・シンク)などがやってくる。そして、かれらのだれもかれもが目高や小蝦や蛙と同様に寄る辺なく、どうしようもない孤独を内に抱え込む一方で、たがいに心を通わせることはない。山椒魚がこう叫んだように。



 「ああ、寒いほど独りぼつちだ!」



 しかし、チャーリーにいよいよ死が訪れようとするとき、奇跡が起きる。それまで頑なに心を閉ざしていたエリーの態度が和らぎ、父親の求めに応じて彼女が以前にしたためたハーマン・メルヴィルの『白鯨』にまつわる作文の朗読をはじめると、チャーリーはおもむろに車椅子から立ち上がって娘に向かって一歩、二歩と足を運ぶうち、その足が床を離れて光に包まれながら昇天していくのに、エリーも歓喜の表情で両手を差しのべるのだ。このラストシーンは『山椒魚』のよく知られた終結場面と重なりあうものだろう。ささやかな世界で、孤独を抱え込み、たがいに意地を張りとおしてきた山椒魚と蛙がついに死を前に和解して、蛙がこう告げる――。



 「今でもべつにお前のことをおこつてゐないんだ」



 晩年の井伏鱒二がこの美しい場面をあえて切り捨てたのは、たとえ死を目の前にしても、自己と他者のあいだに交流の成り立つことを信じられなくなったせいかもしれない。絶対的な孤独。わたしは『山椒魚』の世界の闇の深さをつくづく思い知らされるのである。 


  

一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍