山田洋次 監督『学校Ⅲ』

わたしはいま
「60歳からの筋トレ」教室に通って


 658時限目◎映画



堀間ロクなな


 地元の市営スポーツセンターが毎週1回50分、参加費400円で開いている「60歳からの筋トレ」教室に通いはじめて3年あまり。この間、インストラクターの先生は3人目となり、生徒のほうは現在平均して約20名(男5名/女15名)を数え、ざっと半分が常連メンバーで、この教室で顔を合わせるだけの仲だが、気の置けないおしゃべりを交わす間柄となっている。いわばクラスメートのようなものか。実際、わたしにとっては久しぶりの「学校」と呼ぶべき場所なのかもしれない。



 そうした思いがあるせいだろう、いまにして山田洋次監督の『学校Ⅲ』(1998年)がことさら琴線に触れるのである。



 主人公の小島紗和子(大竹しのぶ)は10年前に夫を亡くし、会社勤めをしながら自閉症のひとり息子の面倒を見ていたが、突然、勤務先からリストラを言い渡されてしまう。生活のために安定した雇用が必要なことを職業安定所に相談したところ、再就職に役立つ資格の取得を勧められて、東京の下町にある都立技術専門校のビル管理課に入学する。ここでは一般の学生たちとは別に、社会人向けに半年間で「二級ボイラー技士」をめざすコースが設けられ、彼女のほかにも、これまでの仕事にピリオドを打った中高年が人生の再チャレンジに立ち向かおうとしていた。だが、元・エリート証券マンの高野周吉(小林稔侍)はいまだにこの境遇を受け入れられず、あからさまに不貞腐れた態度を取って周囲の顰蹙を買うのだった。



 わたしの通う「60歳からの筋トレ」教室においても、年度替わりのタイミングで、いかにも大企業の管理職然とした風貌の、トレーニング・ウェアよりもスーツやゴルフ服のほうが似合いそうな紳士が現れたりする。そして、ひとり離れて孤高を装っているのだが、やがてプログラムが進んでいくと、年配の婦人たちがラクラクとこなす腹筋運動や腕立て伏せについていけないという現実にうろたえて……。



 ことほどさように男のプライドなどタカが知れているもので、映画でも紗和子の思いやりに動かされて高野はたちまち心を開くようになる。しかし、そうやって教室の人間関係ができたからといって事態はスムースに運ぶわけではない。いかんせん若い時分とは勝手が違って、この年齢になると新しい知識を吸収しようにも脳ミソが受け付けず、いたずらに疲労ばかりが積み重なっていくのだ。半年のコースのなかばに達したころ、紗和子はとりとめのない焦燥に駆られたあまり職員(さだまさし)に対して声を挙げる。



 「授業がさっぱりわかりません。勉強すると賢くなるはずだと思うんですけど、でも、アタシ、勉強すればするほどこんがらがってしまって、ただでさえ悪いアタマがどんどん悪くなっていく気がするんです」



 すると、職員は笑顔で大きくうなずく。おそらくこのパラドックスに向きあうことが、中高年が「学校」で学び直すいちばんの意義なのだ。だからこそ、ここを立脚点としてコースの後半を乗り切り、最後には全員が「二級ボイラー技士」の試験に受かって卒業し、ビル管理会社への再就職を果たせたのだろう。そうした事情は、毎回の筋トレに出席したところで、いまさら運動能力が高まるわけもなく、むしろ衰えを思い知らされ、せいぜいそのスピードを遅らせるのに精一杯なわれわれにも重なるものに違いない。そして、このパラドックスに今後の人生の成り行きが懸かっていることでも、技術専門校の生徒たちと共通しよう。



 わたしの家から市営スポーツセンターとは反対の方角に足を向けると、もうひとつのスポーツジムがある。そこは要介護認定者が対象のデイサービスの施設で、もはや自力では歩くのも困難となった人々が送迎バスで運ばれてきて、インストラクターの合図で椅子にすわったまま手足を動かしている様子が、全面ガラス張りの窓越しに眺められる。さらに目を凝らすと、実のところ、そこに集っている男女のなかには「60歳からの筋トレ」教室の生徒たちと変わらない年恰好もけっこう見て取れる。つまり、ほんの少し時計の針を巻き戻せば、いま市営スポーツセンターに通う者とデイサービスのジムに通う者とのあいだの差はごくわずかだったはずだ。



 そんな人生のごくわずかな差をしぶとく育てるのが「学校」という場所なのだと思う。 



一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍