バーナード・ショー著『ピグマリオン』

果たしてふたりは
別れたのか結ばれたのか


661時限目◎本



堀間ロクなな


 アイルランドの劇作家ジョージ・バーナード・ショーの『ピグマリオン』は、のちの人気ミュージカル『マイ・フェア・レディ』の原作として知られるが、そこには作品の根幹を揺るがしかねない大きな謎が横たわっている。その解明にトライしてみたい。



 はるか昔、キプロス島の王ピグマリオンは自分で彫刻した女性像に恋して、それを見かねた愛の女神が生命を吹き込んでくれたことにより妻に迎えたという、ギリシア神話にもとづくドラマは多くのひとにとって親しいものだろう。ロンドンの下町の花売り娘イライザは、たまたま言語学者のヒギンズ教授と知りあい、その粗野な訛りを改めて正しい言葉遣いを身につければ淑女になれると聞かされ、さっそく押しかけて住み込みでレッスンを受けることに。ヒギンズの情け容赦ない猛特訓に泣かされながらも、半年間の努力の甲斐あって、イライザは淑女となりおおせ晴れて社交界にデビューを飾る。かくて人体実験がみごとに成功したとヒギンズは自画自賛するばかりで、いまだに自分を人間として見ようとしないことにイライザは憤怒を爆発させ、ようやく教え子に対する思慕に気づいたヒギンズをあとに残して、彼女に想いを寄せる青年貴族フレディのもとへと出奔した……。



 さて、問題はそのあとだ。ショーが1912年に書き上げたオリジナルの戯曲では、イライザが去ったあと、ヒギンズは相棒のピッカリング大佐に向かって、



 「ピッカリング! バカな! イライザはフレディと結婚するんです。はっ、はっ! フレディ! フレディ! はっ、はっ、はっ、はっ、はっ!」(倉橋健訳)



 と、馬鹿笑いするうちに幕が下りる。ふつうに考えれば、伝説のピグマリオンとは逆に、ヒギンズのほうは手塩にかけて仕上げた淑女をあえなく若造に奪い取られたという、いかにも気難しい皮肉屋のショーらしい結末だ。ところが、である。初演の舞台でヒギンズを演じた劇場主のビアボーム・トゥリーは、ラストシーンでロミオよろしく、イライザに向かって派手に求愛のポーズをしてみせて興行的な大成功を収めた。そこで、憤懣やるかたないショーは単行本として刊行する際にわざわざ「後編」の文章を添えて、はっきりとイライザがフレディと結婚し、ヒギンズは相変わらずしがない独身生活を送っているとの後日譚を明らかにした次第。



 だが、話はこれで終わらない。1938年、『ピグマリオン』がガブリエル・パスカルの製作によって映画化される。このときのラストシーンでは、いったんフレディの車に乗って家出したイライザが舞い戻ってくると、二枚目俳優レスリー・ハワードが扮したヒギンズは、



 「いったい、ぼくのスリッパはどこにあるんだ、イライザ?」



 と、甘ったるいセリフを口走り、オリジナルの戯曲に反して、ふたりが和解するという結末を演じてみせたのだ。さらに話をややこしくしているのは、この映画のシナリオを担当したのはショーそのひとだったにもかかわらず、こうした改変について試写会を観るまで知らなかったと伝えられていることだ。当時すでにノーベル文学賞も得ていた原作者に対して、映画製作者がそんな詐欺まがいの挙に出ることなどありえるだろうか。また、もしありえたとしても、本人が気づいた時点で差し止めるのが当たり前なのに、かれは映画の公開を認めたばかりが、それによってアカデミー賞の脚色賞まで受賞しているのだ。その後、1956年にこの作品が『マイ・フェア・レディ』としてミュージカル化されたときには、映画と同じセリフで華やかなラストシーンが描かれ、1964年にミュージカルが映画化された際には、レックス・ハリソンとオードリー・ヘップバーンのコンビによるフィナーレが世界じゅうを魅了したため、もはやこのハッピーエンドこそがオーソライズされて定着するに至る。



 以上の流れを眺めてみると、なんのことはない、われわれはショーの掌のうえで躍らされてきたような気がする。



 こんなふうに考えてみたらどうだろう。かれがオリジナルの戯曲を書いたのは56歳の年だった。そして、映画化にあたってシナリオを書いたのは82歳の年だった。この56歳と82歳の年齢差がカギを握っていると思う。つまり、戯曲は壮年の時期の産物であって、わが身をヒギンズに置き換えたときにイライザはまだ恋愛・結婚の対象として自然に受け止められたろう。ところが、シナリオのほうはすでに老境に入って久しい時期の産物で、若いイライザはとうてい恋愛・結婚の対象にならず、ありていに言うなら、老いたわが身にとっては介護をしてもらうヘルパーの立場だったろう。ふたりが和解して結ばれたかのように見えるのは、恋愛・結婚の関係ではなく、だからと言って平行線の関係でもなく、いまや介護される高齢者とヘルパーの垂直軸の関係としてであり、それが「ぼくのスリッパはどこにあるんだ?」という、今後の身のまわりの世話を暗示したセリフになった――。



 文豪ショーに対して礼を失した解釈だろうか? そんなことはあるまい。辛辣な文明論者でもあったかれならば、未来世界では人類の高齢化が進行して、長寿を実現した男女にとって恋愛・結婚よりも老後の介護のほうがずっと重大問題になるだろうことぐらいは見越していたはずなのだから。 



 【追記】

 この記事は、すでに第313時限目として掲出した記事を以降の知見にもとづき改稿したものです。基本の論点の変更はありません。 



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とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍