デヴィッド・リーン監督『ドクトル・ジバゴ』
不倫にあたって
求められるものとは
663時限目◎映画
堀間ロクなな
決して、わたしだけではないはずだ。ケツの青いころにデヴィッド・リーン監督の『ドクトル・ジバゴ』(1965年)と出会って、不倫というものに美しい夢を見たのは。まだ結婚はおろか、まともな恋愛さえ経験していないうちから、いつかきっと不倫をしてやるぞ、と胸に誓ったりして……。
20世紀初頭の、第一次世界大戦から共産革命・内戦へと激しく揺れ動くロシア社会が舞台。幼くして両親を失ったユーリ・ジバゴ(オマー・シャリフ)は、富裕な親族に引き取られてモスクワの大学で医師免許を取得し、また、詩人としても名を知られるようになって、養家のひとり娘と結婚する。やがてドイツとの戦争が勃発すると、かれは軍医としてウクライナ戦線へ出征し、過去にほんのわずかな接点のあった女性ラーラ(ジュリー・クリスティ)と親しくなる。彼女は看護婦の仕事をしながら、軍隊に入った活動家の夫の行方を追っていたのだ。ふたりのあいだにはいつしか恋心が芽生えたが、たがいに配偶者のある立場をわきまえたまま、半年後に病院の閉鎖にともなって別れた。
それから2年ほどが経ち、革命の混乱と飢餓のまっただなかにあったモスクワを逃れて、ユーリが一家とともにウラル山地の別荘へ疎開したところ、やはりこの地に幼い娘を連れて避難してきていたラーラと再会する。そして、ふたりはついに恋の焔を燃えあがらせて、もはや世間の目も憚ることなく逢瀬を重ねるうち、中央の権力闘争の荒波がここまでせめぎ寄せてくると、手に手を取って廃屋に身をひそめる。その雪と氷に閉ざされた愛の巣でユーリは蠟燭の火をたよりにペンを取り、彼女を主題とする長篇の詩を書きはじめて、映画は感動のクライマックスを迎える。
そう、詩なのだ! 男にとって妻との関係はいかに尊くとも日常の次元でしかないのに対して、不倫とはまさに詩なのだ! そんなふうに思い当たって、わたしは胸をかきむしりたくなるほどの憧憬に襲われたのだった……。ところが、である。いまこの年齢になってみれば、われながら受け止め方が一変してしまったことに気づかずにはいられない。
実は、道ならぬ恋路を突き進むふたりにとって、恐るべき黒幕が存在した。ヴィクトル・コマロフスキー(ロッド・スタイガー)。やり手の弁護士として上流社会に根を生やし、かつてユーリの亡父と昵懇であり、また、高級洋品店の女主人の愛人でもあったところ、その娘の17歳のラーラを誘惑して処女を奪い、彼女は腹いせに夜会へ乗り込んでピストルをぶっ放したせいで世間から追われる機縁となった人物だ。そんなかれがいまは革命政権の司法大臣となって、ふたりの愛の巣にいきなり姿を現し、ラーラの夫が失脚して危険が迫っていることを知らせてくるなり、いったんは追い払ったものの、結局、ユーリは彼女を手放してしまうのである。
こうした成り行きにかつてのわたしは憤怒が込みあげ、厚顔無恥なスケベオヤジを呪ったものだ。しかし、いざ自分の年齢がユーリばかりかコマロフスキーまでも上まわった段階で振り返ってみると、見方が百八十度変化して、ラーラの不倫の相手にふさわしいのはユーリではなくコマロフスキーのほうだと思えてくるのだ。彼女からすれば、思春期の欲望に唆されて母親の愛人と関係を持ったあげく発砲沙汰を起こしたのも愛のドラマだったろうし、久しく関係が絶えたのちに、わざわざ憎悪の的となることを承知のうえで救出にやってきたのも深い愛情のなせる業とわかっていたに違いない。
こうした心理の機微について、映画では、ラーラがもはやユーリの詩にもうんざりして物憂げな表情を浮かべる様子で描写されるが、その原作となったボリス・パステルナークの同名小説(1957年)では、つぎのようなセリフが与えられている。この言葉はおそらく、作者の不倫相手だったオリガ・イヴィンスカヤの口ぶりにのっとったものだろう。
「わたしがまだ何も言わないうちから、あなたはすぐもう不服そうな言い方になるのね。でも、わたしの言うことがまちがっているかしら?〔中略〕ほんとうに助かろうと思うんなら、もっと確実な、充分に練りあげられたプランが必要よ、それこそ、あのいやらしいけれど、事情通で実際家の人がすすめてくれたみたいなね。だって、考えてもごらんなさいな、ここみたいに危険と隣り合わせのところがほかにあると思って。吹雪に吹きさらされる、涯(はて)しもない平原のただなかよ。そんなところに、わたしたち、独りぼっちでほうり出されているんだわ」(江川卓訳)
すなわち、ラーラがユーリの手を離れて、わが身をコマロフスキーに託したのも必然的な帰結だったのだ。そして、われわれは学ばなくてはならない、不倫にあたって最後に求められるのは詩ではなく、「いやらしいけれど、事情通で実際家の人」であることを。あ、いや、もちろん、これから何かをしようとするわけではないにせよ……。
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