モーツァルト作曲『交響曲第31番〈パリ〉』
「美しい演奏」は
「高潔な人格」から生まれる?
666時限目◎音楽
堀間ロクなな
イギリスのレコード会社「デッカ」(現在はユニバーサルミュージック傘下)の名プロデューサー、ジョン・カルショーは、ワーグナーの超大作『ニーベルングの指環』の史上初となったスタジオ全曲録音をはじめ、数々の名盤を世に送りだしたばかりでなく、1950~60年代のクラシック音楽界の内幕を赤裸々に描いた、ふたつの貴重な回想録を残したことでも知られている。
そのひとつ、くだんの歴史的なレコーディングにまつわる『ニーベルングの指環 ―リング・リザウンディング』(1967年)のなかに、とりわけ風変わりな「あるウィーンの指揮者」が登場する。その記述にしたがえば、かれがロンドンで行ったヨハン・シュトラウス演奏会について、カルショーの同僚のクリストファー・ジェニングズが賞賛の論評を発表したところ、「その指揮者は、慎み深い人物がまれにしかいない彼の同業者たちの中でも例外的なほどに、虚栄心が強かった」ため、ジェニングズをクビにするよう求めた。なぜなら、かれはウィンナ・ワルツなどではなく、もっと高尚なモーツァルトやベートーヴェンの音楽で認められることを望んでいたからだ。しばらくして、ジェニングズがポリオ(急性灰白髄炎)により20代の若さで逝去すると、つぎのような一幕があったという。山崎浩太郎訳。
クリストファーの死から、一、二週間後、この指揮者をロンドンのホテルに訪ねる必要があった。部屋に入るなり、彼は私を質問責めにした。
――ジェニングズはまだデッカにいるのか? まだクビになっていないのか?
ジェニングズは亡くなったと答えた。彼の大きな目が輝いた。
「神が、彼に罰を与えたんだ」彼は言った。「彼の家族に対しても。私への仕打ちの報いだ」
あまりにも人間性の情味を欠いた態度に対して、カルショーはずっとわだかまりを抱いていたのだろう。後年、もうひとつの著作『レコードはまっすぐに』(1981年)で、この指揮者の実名を明かしている。
ヨーゼフ・クリップス。1902年にオーストリアのウィーンに生まれ、ドイツ各地の歌劇場でキャリアを積んだのち、1933年にウィーン国立歌劇場の常任指揮者に就いたものの、ユダヤ人だったために、間もなくナチス・ドイツのオーストリア併合にともなって祖国を追われる。ところが、こうした経歴によって、第二次世界大戦が終わるといち早くオーストリアの楽壇に復帰して、ウィーン国立歌劇場の復興にあたるとともに、世界各国のオーケストラの指揮台に迎えられることとなり、1968年にはサンフランシスコ交響楽団を率いて一度きりの来日公演も果たした。
そんなクリップスは、カルショーが伝えるとおりレコード録音にも意欲的に取り組み、モーツァルトやベートーヴェンの演奏にことのほか自信を持っていたようだ。実際、1972~73年にオランダの名門ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団と組んだ、大規模なモーツァルトの交響曲集(20曲)は屈指の名盤として現在も流通している。
そのうちの『交響曲第31番〈パリ〉』を聴いてみよう。1778年、モーツァルトが20代になって初めて手がけた交響曲で、故郷ザルツブルクの職を辞めてパリへの進出を目論んでいただけに、当地のコンセール・スピリチュエルから依頼を受け、ふだん速筆のモーツァルトとしては珍しく念入りに推敲を重ねて、第2楽章のアンダンテは2種類の稿を用意して完成させた。クリップスはこうした作品に溌剌と立ち向かい、贅沢にも第2楽章は2種類とも取り上げて、いかにもギャラントな雰囲気を醸しだして聴く者を夢見心地へといざなうのだ。
指揮をしたり美しい演奏をしたりする能力には、高潔な人格とか、それどころか人格それ自体すら必要とされないことを理解するには、私たち二人は若すぎ、未熟すぎた。
カルショーは前記のジェニングズをめぐるエピソードのなかで、こんな述懐を書きつけている。なるほど、クリップスという指揮者は「美しい演奏」と「高潔な人格」の著しい乖離を示した実例なのだろう。
しかし、とわたしは華麗な『パリ』の演奏を耳にしながら考えてみる。ことによると、カルショーが認めたように、芸術に理想を見出そうとしたのはたんに若さと未熟さのなせる業だったのかもしれない。いまから250年ほど前、ルイ16世とマリー・アントワネットが君臨する花の都にあって老獪な貴族たちもまた、ハナから「美しい演奏」と「高潔な人格」を結びつけたりはしていなかったはずだから。モーツァルトの音楽に酔い痴れる一方で、自由・平等・友愛を標榜するフランス革命の足音がついそこまで迫っていることに無頓着だったかれらは――。
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