ユゴー著『死刑囚最後の日』

あと一分ください、
あと一分……


667時限目◎本



堀間ロクなな


 先般、内閣府が公表した死刑制度の是非を問う最新の世論調査(2024年実施)によると、容認派83.1%、廃止派16.5%で、過去20年間にわたり一貫して容認派が8割以上を占めるという結果になった。その理由(複数回答)が「被害者やその家族の気持ちがおさまらない」(62.2%)、「凶悪犯罪は命をもって償うべきだ」(55.5%)、「死刑を廃止すれば凶悪な犯罪が増える」(53.4%)……というのも大方の首肯できるところだろう。



 しかし、その一方で、世界の民主主義社会のなかでいまだに死刑を維持・執行しているのはアメリカの半数以下の州と日本だけという現実を前にしたとき、われわれにとって当然のような世論調査の結果は、実のところかなり特異なものであることを意味しているのかもしれない。もし日本が民主主義社会を標榜するなら、こうしたギャップについて真剣に考えてみる必要があるのではないか?



 そんな思いから、ヴィクトル・ユゴーの『死刑囚最後の日』(1829年)をひもといてみる。のちの大文豪が、幼いころ目撃したギロチンの公開処刑の光景を忘れられず、26歳のときに熱病に取り憑かれたかのように3週間ほどで書き上げ、当時、フランス革命以来の死刑制度をめぐる論議に大きな影響を与えて、1848年の政治的な理由での死刑の廃止へとつながるきっかけをつくったという(フランスで死刑が全面的に廃止されたのは、ミッテラン大統領の社会党政権下の1981年)。



 こうした歴史的価値を持つ作品は、平凡な中年男性の「私」が裁判で死刑の判決を受けて処刑の日を迎えるまでの、約6週間の心情を綴った手記という形式を取っているのだが、おそらく日本人のほとんどは読みはじめてすぐ、そんな馬鹿な! とつぶやきたくなるだろう。というのも、この手記には、「私」がどんな罪を犯したのかについて一切説明がないのだ。われわれの感覚では、上記の世論調査にも示されているとおり、その人物が犯した「罪」の重さと死刑という「罰」の重さは必ず相関関係にあるわけだから。



 しかし、ユゴーがここであえて「罪」と「罰」を切り離したのは、どのような凶悪犯罪でも終身刑に処せば十分であり、また、たとえ死刑を見せしめにしたところで凶悪犯罪の防止にはなんら役立たない、との考えを反映したものだろう。のみならず、そもそも人間はだれしも無限定の執行猶予がついた死刑囚だとして、「私」につぎのような観察を記述させるのだ。小倉孝誠訳。



 私に判決が下されて以降、長く生きるつもりでいたどれだけの人が亡くなったことだろう! 若く、自由で、健康で、ある日私の首がグレーヴ広場で切り落とされるのを見物するつもりだった人が、どれだけ私より先に死んだことだろう! 今は戸外を歩き、大気を吸い、自由に家を出入りする人がどれだけ、おそらくこれから処刑までの間に私より先立つことだろうか!



 ひっきょう、人間の生死を司るのは神だけであって、人間が人間に対して死をもって裁くとは越権行為でしかない。ユゴーにとって、それは自明の理だったのに違いない。そして、やはり神の前にあってひとりの人間であるはずの「私」には、老いた母親と、妻と、まだ3歳になったばかりの娘マリーがいると設定して、死刑執行の当日になると、こう手記にしたためさせる。



 おお、哀れな娘よ! あと六時間すれば私は死ぬ! そして汚らわしいものになって解剖室の冷たい台の上に横たえられる。頭は型を取られ、胴体は解剖される。残りの部分は棺いっぱいに入れられ、まとめて全部クラマールの墓地に送られる。

 あの男たちは、お前の父親をそんなふうにするのだ。彼らの誰ひとり私を憎んでいないし、皆私に同情し、その気になれば私を救える。それなのに彼らは私を殺すのだ。マリー、お前にはそれが分かるか。良かれと思って、冷静に仰々しく私を殺すのだ! ああ、何ということだ!



 つまり、こういうことだ。しょせん人間はすべて死刑囚に過ぎず、その生死を神のみが司っているときに、人間同士のあいだで死刑を執行することの責任は宙に浮かせたままで、だれしもそこから目を背けてただ手続きどおりに運んでいるだけではないのか。なんという不条理! 理想の民主主義社会にあって許されるべきことではあるまい。だから、「私」はギロチン台にのぼらされた最後の瞬間までこの現実を受け止められず、きっと恩赦がもたらされるはずと確信して「あと一分ください、あと一分……」と叫び続けるのだ。



 さて、若き日のユゴーが渾身の力を注いだこの告発を、われわれはどう受け止めたらいいのだろうか? 正直にいえば、本書を読み終えたあとでも、マスコミによるひっきりなしの凶悪犯罪の報道に接するにつけ、いまだに死刑廃止に高々と手を挙げられない自分がいることに戸惑っている。ことによったら、わたしは民主主義社会の住民ではないのかもしれない、との思いに駆られながら。 


 

一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍