ショスタコーヴィチ作曲『ボルト』

最後に皆が
新しい機械の周りで踊る


668時限目◎バレエ



堀間ロクなな


 バレエは空間の芸術である。限られた広さの、重力に支配された空間のもとで、世界を表現し尽くそうとするのだから、そのストーリーはしばしば荒唐無稽となりかねない。



 なかでも、ロシアがソ連だった時代の『ボルト』は最たるものだろう。ある巨大な工場を舞台にして、不埒な労働者が解雇されたことに憤懣やるかたなく、腹癒せに機械にねじ(ボルト)を突っ込んで壊そうとしたものの、他の労働者たちが駆けつけて修理するとともに新しい機械も導入されて、共産主義体制の健全さをアピールするという内容だったから、1931年にレニングラード(現・サンクトペテルブルク)のキーロフ劇場で初演後、すぐさま打ち切られたのもむべなるかな。



 もし、このバレエに作曲したのがドミートリー・ショスタコーヴィチでなければ、とっくに歴史のかなたに忘れ去られてしまったに違いない。当時24歳だったかれの音楽は才気と活力に満ちてあくまで素晴らしく、計43曲から8曲をピックアップした組曲版が演奏されてきたところ、ショスタコーヴィチ生誕100年を記念して、2006年にモスクワのボリショイ劇場が鳴り物入りで蘇演して、ライヴ映像の商品化もされたため、初めてわれわれはその全容を目の当たりにすることができるようになったのである。



 確かに、いまの目で見てもお尻のあたりがムズムズしてくる。まじめな若者のヤン(アンドレイ・メルクーリエフ)とナスチャ(アナスタシア・ヤツェンコ)のカップルをはじめとする工場労働者たちがせっせと仕事に励むかたわらで、ひとりデニス(デニス・サーヴィン)は煙草をふかしながらなまけて工場長からクビを言い渡される。デニスはいかがわしい酒場で飲んだくれたあげく、仲間のイワーチカ(岩田守弘)を誘って深夜の工場へ忍び込み、手にしたボルトで機会を壊しにかかる。そこにヤンやナスチャが駆けつけ、イワーチカも改心して寝返ったことで大事に至らず、正義が勝利すると、工場労働者と赤軍兵士がいっしょになって歓喜を爆発させる……。



 とまあ、お約束どおりの大団円を迎えたあとで、とんでもないドンデン返しが待っていた。いったん幕が下りてから、カーテンコールとなり、舞台上でソリストのダンサーがひとりひとり挨拶していくと、なんと、最後に現れて盛大な拍手を浴びたのは赤軍に逮捕されたはずのデニス役のダンサーではないか。つまり、アレクセイ・ラトマンスキーの振付になるこの公演において、真の主役は破壊工作者のほうだったのだ! これは、かつての共産主義の管理体制を批判して、そこに風穴を開けようとした行為を称揚する、今日ならではのアップデートされた解釈というべきだろう。



 いや、必ずしもそうではないのかもしれない。ショスタコーヴィチは作曲当時、親友に宛てた手紙でこんなふうに書いている。 



 「内容はきわめて時事的です。まず機械がある。次にそれが壊れる(装置の損耗の問題)。それから人々がそれを直す(債務償還の問題)。それと同時に新しい機械を一台買う。最後に皆が新しい機械の周りで踊る。神格化。これ全部で三幕になります」(藤岡啓介・佐々木千恵訳)



 ひどく醒めた文面には、かれもまた、自己を取り巻く体制に屈折した思いを抱いていたことが窺われるのだ。果たして、このときバレエという空間の芸術をとおして何を見つめていたのだろうか?



 わたしの脳裏では、ふいに突拍子もない連想が去来する。奇しくも『ボルト』が産声をあげようとするころ、モスクワの東方勤労者共産大学(クートヴェ)へ、極東の島国にある非合法の共産党からひとりの青年が送り込まれてきた。かれは留学中に体験した共産主義の現実にすっかり幻滅したらしく、やがて帰国すると特高(特別高等警察)の手先となり、1932年に熱海温泉でひそかに開かれた共産党の代表者会議に捜査陣を手引きして一網打尽にする大役を果たした。いつしか「スパイM」と呼ばれるようになったこの異端の破壊破壊工作者は、以後、世間から姿をくらまして戦中・戦後を過ごし、1965年に北海道で63年の生涯を終えた。そのかれは晩年、『空間論』と題した長大な原稿の執筆に余念がなかったと伝えられている。



 人間をがんじがらめにして、決して解き放つことのない空間というもの。わたしはなぜか、この「スパイM」が見つめていた空間と、ショスタコーヴィチが見つめていた空間とがひとつながりだったように思えてならないのだが……。


   

一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍