三宅 唱 監督『夜明けのすべて』
スケジュールどおりに
運ばない生き方のきらめき
669時限目◎映画
堀間ロクなな
「では、みなさん、目を閉じてください。都会でも星は見えますが、きょうはせっかくなので遠くまで出かけましょう。私たちはいま船に乗ってゆっくりと港を離れていきました。十数えたら目を開いてください。一、二、三、四、五、六、七、八、九、十。私たちの船には残念ながら携帯電話も方位磁針もありません。そんなときには夜空を見上げて星に道案内を頼みましょう。実は、私は超がつくほどの方向音痴で、しょっちゅう星のお世話になっています、曇りの日は最悪です。それはさておき、オリオン座を探してみましょう」
三宅唱監督の『夜明けのすべて』(2024年)で、小学校の体育館を借りて移動プラネタリウムが開かれた際に、進行役の「藤沢さん」(上白石萌音)はこう口火を切る。一見なんの変哲もないセリフだが、映画を観ている者の耳には心安らぐ音楽のように届くはずだ。
あらためて振り返ってみると、わたしが日常をスケジュールにしたがって送るようになったのは、小学校に上がって授業の時間割りが与えられたときにはじまるだろう。以来、大学までの学生生活において、また、40年あまりにおよんだサラリーマン生活において、多少の紆余曲折はあれ、ともかくも日々スケジュールどおりにこなしていくことを習い性としてきた。
ところが、くだんの「藤沢さん」は別種の人間だ。極度のPMS(月経前症候群)により周期的に感情が高ぶって混乱してしまうため、新卒で就職した先を辞めざるをえず、いまは子ども向けに顕微鏡や天体望遠鏡の工作キットを製造・販売する零細企業で働いている。オーナーの「栗田社長」(光石研)は、かつて共同経営者の弟を自死で失ったことからハンデを負った人々に雇用の門戸を開いたのだ。ある日、隣の席に現れた「山添くん」(松村北斗)もまた、重度のパニック障害を発症して、電車やバスに乗れないばかりか、ときに激しい過呼吸の発作も起こすことから、以前の職場を離れてここへ移ってきたのだった。
PMSとパニック障害。ともに自己のコントロールがままならないふたりは、日常をスケジュールどおり運ぶことに四苦八苦しながら、少しずつ、ほんの少しずつ、心を開いて支えあい、やがておたがいのアパートの部屋を自転車で往き来する間柄になっていく。しかし、ついに恋愛感情を育むことがなかったのは、それもまた、ふたりにとって苦手なスケジュールを要するものだったからだろう。
わたしは思い知らされる。果たして、日々心身のコンディションを安定させ、通勤列車に乗って会社へ出向いて与えられた仕事に立ち向かうことが当たり前なのか。あるいは、多少とも異性(場合によっては同性)と心を通わせたら、つぎに恋愛感情や性的欲求へと発展させていくことが当たり前なのか、と――。とりわけ、昨今は少子高齢化社会の到来を受けて、国を挙げて就労期間の延長やら出生率の回復やらに向けてのスケジュールが振りかされているだけに、ここに描かれたふたりのあり方にはアクチュアルな問題提起を含んでいるように思えるのだ。
そんな「藤沢さん」と「山添くん」は、会社が年に一回、地域貢献活動として行っている小学校での移動プラネタリウムの運営を任されることに。当日は「山添くん」がまとめた原稿を進行役の「藤沢さん」が読みあげながら、冒頭のセリフでスタートを切った。実は、私は超がつくほどの方向音痴で、しょっちゅう星のお世話になっています、曇りの日は最悪です……とは、ともすると病気に翻弄されて右往左往しがちな自分たちの率直な気持ちから発せられた言葉だったのに違いない。そして、宇宙をめぐる旅の最後に「藤沢さん」は「栗田社長」の亡き弟がノートに書き残した言葉を引用して、こんなふうに結んだのだった。
「夜明けがいちばん暗い。これはイギリスのことわざだが、人間は古来から夜明けに希望を感じる生き物のようだ。たしかに、朝が存在しなければ、あらゆる生命は誕生しなかっただろう。しかし、夜が存在しなければ、地球の外の世界に気づくこともできなかっただろう。夜がやってくるから、私たちは闇の向こうのとてつもない広がりを想像することができる。私はしばしばずっとこのまま夜が続いてほしい、永遠に夜空を眺めていたいと思う。暗闇と世界が私をこの世界につなぎとめている」
そう、夜が明けて朝になることで一日のスケジュールがはじまる。しかし、スケジュールのあいだ、世界は決してその神秘の扉をわれわれの前に開くことはない。ふたたび夜になってスケジュールから解放されるまでは――。このイベントのひと月後、「藤沢さん」は母親の介護のために方の実家近くの会社へ転職することになり、「山添くん」との別れの日を迎えた。まるでなにごともなかったかのように、淡々と。しかし、そこにはスケジュールどおりに運ばない生き方の美しいきらめきが溢れでて、わたしもいつしか自然な呼吸をしていることに気づかされたのである。傑作だと思う。
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