魯 迅 著『狂人日記』

中国社会を揺さぶる

「三失一偏」とは


 670時限目◎本



堀間ロクなな


 「三失一偏」というんだそうである。



 中国では昨年(2024年)来、小学校付近で学童に向かって刃物を振りまわしたり、住民の憩いの場所へ車で突っ込んで暴走させたり……といった無差別殺傷事件が相次いだため、習近平国家主席が「極端な事件を防ぎ、人民の生命の安全と社会の安定を全力で確保しなければならない」と指示を出して、各地でこうした犯罪を起こしかねない予備軍の調査・監視がはじまった。その際のポイントが「三失」(希望を失った/精神の均衡を失った/正常な行動を失った)と「一偏」(性格が偏っている)というわけだが、実のところ、悠久の歴史を生きてきたかの国の人々の「三失一偏」とはどんな精神状況なのか、われわれにはおいそれと窺い知れないものがある。



 そこで、思い起こされるのが魯迅だ。中国の近代文学の扉を開いたとされるかれは、日本留学から帰国したのち中学校の生物学教師などをしながら、38歳のときに処女作『狂人日記』(1918年)を発表する。すなわち、いってみれば約1世紀前の中国社会における「三失一偏」のありようを描きだすことで本格的な文学活動のスタートを切ったのだ。



 魯迅はこの小説を、19世紀のロシアの作家ニコライ・ゴーゴリの『狂人日記』(1835年)から着想したそうだけれど、両者を並べて読んでみると、どちらもしがない中年男が語り手のほかは共通点よりも相違点のほうがきわだっている。ゴーゴリ作品の「おれ」はサンクトペテルブルグの下級官吏で、高貴な女性に懸想したものの相手にされぬうち、ふいに自分がスペインの王位継承者であることに思い当たり、周囲のもの笑いになりながら妄想をふくらませていって、マドリッドへと旅立つ……といった内容だが、魯迅作品の「おれ」が語りだすのはおよそ異なるものなのだ。竹内好訳。



 朝早く、兄貴に会いにいった。兄貴は部屋の外に立って、空を眺めていた。おれはうしろに廻って、入口に立ちふさがって、ごくおだやかに、ごくおとなしく、話しかけた。〔中略〕

  「兄さん、たぶん大むかしは、人間が野蛮だったころは、だれでも人間を食ったんでしょうね。それが後になると、考えが変ったために、あるものは人間を食わなくなって、ひたすらよくなろうと努力したために、それで人間になりました。真実の人間になりました。ところが、あるものはやはり人間を食った――虫だっておなじです。あるものは魚になり、鳥になり、猿になり、とうとう人間になりました。あるものは、よくなろうとしなかったために、今でもまだ虫のままです。この人間を食う人間は、人間を食わない人間にくらべて、どんなにはずかしいでしょうね。虫が猿にくらべてはずかしいより、もっともっとはずかしいでしょうね」 



 この奇怪な論理は、お察しのとおり、「兄貴」が「おれ」を食おうとしているとの思惑から発している。それにはあながち根拠がないわけではない。中国では天地開闢以来、長きにわたって食人の習慣が伝えられてきたし、儒教の倫理ではむしろ、年長者のために年少者がみずからの肉を差しだすのを美徳とする向きさえあったのだから。もっとも、魯迅があえて食人の題材を持ちだしたのは一種のアレゴリーと見なすべきで、肝要なのは、ゴーゴリの「おれ」があくまで社会と自己の関係のなかで精神のバランスを崩したのに対して、魯迅の「おれ」はいきなり社会を跳び越え、歴史と自己の関係のなかでみずからを抜き差しならぬ精神状況へと追いこんでいくことだ。



 この事態をどう受け止めたらいいのかわからない「兄貴」を尻目に、ついに「おれ」は最終的な結論に達する。



 考えられなくなった。

 四千年来、絶えず人間を食ってきたところ、そこにおれも、なが年くらしてきたんだということが、今日やっとわかった。兄貴が家を管理しているときに妹は死んだ。やつがこっそり料理にまぜて、おれたちにも食わせなかったとはいえない。

 おれは知らぬ間に、妹の肉を食わせられなかったとはいえん。いま番がおれに廻ってきて…… 

 四千年の食人の歴史をもつおれ。はじめはわからなかったが、いまわかった。真実の人間の得がたさ。



 どうやら自分もまた人間を食ってきたらしいし、そもそも中国に真実の人間などひとりもいやしないのだ。こうした言葉を吐く「おれ」がもし、刃物を手にしたり、車のハンドルを握ったりしたら……。今日、習近平国家主席以下、中国全土の当局者たちがまなじりを決して「三失一偏」に立ち向かおうとしているのは、隣の小さな島国に住むわれわれにはとうてい理解できない事情が存在するからではないだろうか? 



一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍