岡崎京子 著『ヘルタースケルター』
現代日本によみがえった
「白雪姫」の行方は
673時限目◎本
堀間ロクなな
岡崎京子のマンガ『ヘルタースケルター』(2003年)は、ファッションモデルと美容整形手術という生々しい題材を扱っているが、現実世界の実相を描きだそうとしたものではない。だから、蜷川実花監督によって映画化(2012年)されたときには、主演の沢尻エリカのからだを張った演技にもかかわらずたんなる茶番劇に終わってしまったのも当然だったろう。この作品は、いわば女性の美をめぐる一種の思考実験なのだ、あの『グリム童話』の白雪姫と同じように。
お城の妃が「鏡よ鏡、この世でいちばん美しいのはだあれ?」と問いかけて、「それはあなたさまです」との答えにうなずくのを日課としていたところ、ある日、年ごろになった継子の白雪姫のほうが美しいと伝えられるなり、すぐさま狩人に姫の殺害を命じる成り行きには、わたしも幼い日に戦慄した記憶がある。しかし、あらためて読み返してみると、姫のほうも負けてはいない、やってきた刺客に「ああ、狩人さん。命だけは助けてくださいな。森の奥へ入ったきり、もうお城には戻りませんから」と落ち着き払って告げたのは、自己の美をよく認識し、この事態の到来を十分予測していたことを示すものだろう。かくして、彼女は森の奥にひそんで7人の小人の支援を受けながら妃との闘いに立ち向かい、最後には王子と結ばれて勝利を収めるのである。徹頭徹尾、自己の美を力として――。
女性は美に対して決して無邪気ではいられない。こうした白雪姫のリアリズムを現代日本に再現してみせたのが『ヘルタースケルター』の主人公、りりこだ。ファッションモデルのスーパースターとして君臨していたが、彼女をプロデュースした所属事務所の女社長にいわせれば「このこはねえ、もとのままのもんは骨と目ん玉と爪と髪と耳とアソコぐらいなもんでね。あとは全部つくりもんなのさ」。そんな美容整形手術がつくりだした美女も、風呂上がりには「鏡よ鏡、この世でいちばん美しいのはだあれ?」とつぶやく。そのとおり、この問いかけはお城の妃だけでなく白雪姫もまた口にしていたはずなのだ。しかし、りりこに向かって、鏡は「それはあなたさまです」と答える代わりに、髪の生え際のアザを写しだす。美容整形手術の後遺症がはじまったのである。彼女は叫ぶ。
あたしは絶対しあわせになってやる
じゃなかったらみんな一蓮托生で地獄行きよ
ちくしょう さもなくば犬のようにくたばってやる
そこで、りりこは自分に言い寄ってくる連中のなかから有名デパート・ホテルのオーナー家の御曹司を選び、相手に求められるまま両足を開きながら、胸のなかでこんなセリフを反芻するのだ。
くそったれの親がかりの甘ったれ野郎が!
こちとらからだひとつでやってんだよ!
でもあたしはあんたを逃がさないわ
あんたは私の王子様だもの
この言葉は、妃の毒リンゴを噛んで死地に追い込まれた白雪姫が、彼女の美貌に惹かれて手を差しのべてきた王子に抱いた思いと同じものだったに違いない。やがて美容整形手術の後遺症は容赦なくりりこの全身を蝕み、その苦痛から逃れるためのクスリの服用から錯乱しがちなこともあいまって、くそったれの御曹司は去り、さんざん彼女をちやほやしてきた女社長や業界関係者たちも背を向けていく。頑丈な鎧のようにまとってきた美が崩壊の危機に瀕したいま、彼女はようやく自分自身と真正面から向きあうことになった。
ひとりでいるとおしつぶされそうになっちゃうの
ひとりでいるとよくわかんなくなっちゃうの
ひとりでいるとワケわかんなくなっちゃうの
頭の中に「それ」が生まれて「それ」がどんどん大きくなって
しまいにゃそいつに食べられちゃうのよ
あたかも幼児のひとり言めいたセリフは、想像するに、女性が美というものをぎりぎりまで追いつめていった先に出会う虚無を語っているのだろう。あえて、想像するに、と断ったのは、男である自分にはそのあたりをとうてい窺い知ることができないからだ。果たして、女性の頭のなかを占める「それ」とは何を指すのか? もはや狂気と呼ぶしかないものなのか? ひたすら途方に暮れるわたしにも、ひとつだけはっきりとわかったのは、この「しっちゃかめっちゃか」という意味の題を持つマンガが最後に提示してみせたまことに驚くべきビジョンだ。りりこは絶体絶命の境地に陥ったあとに、なんと、いったん死んでからよみがえって「神話と伝説」となりおおせることで、あらためて美をわがものにして未来へと歩みだしたのだ。まさしく、あの白雪姫と同じように――。
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