狂言『子盗人』
それならば、
まずこの子から切らせられい
674時限目◎その他
堀間ロクなな
先般、大阪で行われた裁判の報道に腹の底から憤りが湧いてきた。35歳の母親が8歳の娘に食事を与えずに低血糖症にさせて、共済金14万円をだまし取ったとして詐欺などの罪に問われたという。こうした大人の幼い子どもに対する横暴な振る舞いを見聞きするたびに、わたしは憤怒の感情に駆られて「人非人」と叫びたくなるのがつねだ。しかし、実はそう単純な話ではないのかもしれない、と思い当たったのは、ある狂言の舞台がアタマによみがえったからだ。
能楽狂言最古の流派とされる大蔵流では、昨年(2024年)から東京・神楽坂の矢来能楽堂で「ももやそ狂言」と題したシリーズ企画をスタートさせた。ここには稽古順に百八十(ももやそ)の演目が伝わっていて、それらを毎回5演目、年4回の公演で、すべて上演するのに足かけ10年を要するという気宇壮大なものなのだが、われわれからすれば一生に一度しかお目にかかれないはずの演目をつぎつぎと鑑賞できる貴重な機会となっている。そして、今春に行われた第3回公演で出会ったのが、問題の『子盗人(こぬすびと)』だ。
この演目は稽古順で百四十一番目という相当の難曲で、演者には高度な芸が要求されつつ、ストーリーの枠組み自体はきわめてわかりやすい。
主役(シテ)の盗人(吉田信海)はギャンブルにウツツを抜かしたあげく首が回らなくなって犯罪に手を出したというのだから、昨今世上を揺るがす「闇バイト」による強盗殺傷事件を先取りした設定と見なせるだろう。そんなかれが盗みに入った先はいかにも裕福そうな有徳人(高木謙成)の屋敷で、ずらりと並んだ茶道具や武具のたぐいを物色するうち、奥の間に赤ん坊がひとりで横たわっているのに気づく。どうやら、ずぼらな乳母(大蔵康誠)が置き去りにしたものらしい。そっと近寄ってみると、赤ん坊はまんまるな目を開けてこちらに手をのばしてくるではないか。そこで、盗人が出た行動とは――。引用は岩波書店版『日本古典文学大系 狂言 下』(1961年)による。
「イヤイヤ、みどもはそなたの知る人ではおりないぞ。でも、抱かりょう。オオ それならば、抱きましょう 抱きましょう。さらば 抱きましょう。ヤットナ。さてもさても こなたはよい子じゃ。総じて 下々(しもじも)の子は、知らぬ者を見ては必ず泣くものじゃが、わごりょは有徳人の子ほどあって、某(それがし)がようなむくつけな者に ようお抱かりゃったの。さて 何ぞ芸があるであろう。イヤイヤ、何ぞ芸があろう。オオ、手打(ちヨうち) 手打 手打 手打。もうないか。サアサア、いま一つ 芸を見ましょう。オオ、かむり かむり かむり かむり。さてもさても そなたは芸者じゃ。ヤ、これはいかなこと。あまり声高に笑うたによって、機嫌がそこねた。さてさて 苦々しいことじゃ。それならば、ちとすかしましょう。ソリャ、コソコソコソ、コソコソコソコソ。ハア、いとし子でござるを 誰がまた泣かいた。いたちが来るによ。な泣いそや な泣いそ。ころころころや。さればこそ、はや 機嫌が直った……」
この場面、盗人役は「こがしら」という人形を抱えて演じ、「手打」や「かむり」とは赤ん坊が手を打ったり頭を振ったりする芸のことで、当時の赤ん坊をあやす様子がリアルに描写されていて微笑ましい。実際、舞台を眺めながら客席のわれわれも自然と顔がほころんだ。ところが、そこに乳母が戻ってきて思いがけぬ事態に仰天し、有徳人の主人もおっとり刀で駆けつけてくる。たちまち窮地に陥った盗人は、乳母に代わって子守りをしていたと強弁したものの、主人は委細構わずに刀を振り上げた。すると――。
「それならば、まずこの子から切らせられい。サア 切らせられい。サアサア 切らせられい 切らせられい」
そう叫んで、盗人はついいましがたまであやしていた赤ん坊を相手の刀の切っ先に突きつけたのである。おそらく昔日の観客はこうした極端な豹変ぶりを目の当たりにして大笑いしたのだろうが、現代のわれわれはどうか? 客席のだれもが予測していたのは、盗人が赤ん坊の可愛らしさによって改心し、主人もその態度に免じて許してやるという展開であったところ、あっさりと裏切られて、一体、笑っていいやらどうやら戸惑ってしまったのが実情ではなかったろうか。
ことによると、大人は何があっても子どもに手出ししてはならないといった、わたしの胸中にある思いは、平和と飽食に馴れきった者のイリュージョンなのかもしれない。だからこそ逆に、冒頭に掲げた事件で、大阪の裁判所が母親に対して詐欺は無罪としながら、娘に食事を摂らせなかったのは「怒りからの突発的な犯行」として懲役6カ月、執行猶予2年の有罪判決を申し渡したとおり、この社会はたゆむことなく子どもの安全を訴え続けていく必要があるのだろう。狂言『子盗人』は、後世にそんな教訓を伝えているようだ。
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