渥美 清 主演『拝啓天皇陛下様』
いじらしくも風変わりな
天皇陛下の「赤子」
675時限目◎映画
堀間ロクなな
もうずいぶん前、わたしが映画『男はつらいよ』の出版企画で山田洋次監督にインタビュー取材したときのこと。俳優・渥美清について、どんな格好をしても似合わないところが持ち味だ、という趣旨の発言があったことを記憶している。「東映でシリーズになった列車の車掌さんもどこかおかしい。ましてや軍人なんて。タクシーの運転手でも警察官でも、銀行員でも大工でも、あの人が演じると現実とどこか少し違っているんです」(『男はつらいよ大全』2002年)と――。
そんな渥美が「ましてや軍人なんて」の軍人に扮したのが野村芳太郎監督の『拝啓天皇陛下様』(1963年)で、実際、ここに登場する大日本帝国陸軍の兵隊は「どこかおかしい」。映画は、作家志望のインテリ青年・棟本博(長門裕之)が腐れ縁の友人・山田正助(渥美)との長年におよぶ交流を物語るという形式で進んでいく。
昭和6年(1931年)1月、ふたりはともに新兵として岡山の歩兵第10連隊へ入隊したことで出会うのだが、要領のいい棟本に対して、山田のほうは軍服の寸法が合わずジタバタしていると上官から「からだのほうを合わせろ」と怒鳴られるといった具合。かくて、先輩の二年兵たちから猛烈なシゴキを受ける羽目になったものの、山田は棟本に向かって、幼いときに父母と死に別れ、物心ついてからは土方や人夫を転々としてきた自分にとって、楽に三度のメシが食えて風呂にも入れる軍隊はまるで天国だと笑うのだった。
翌年、二年兵となった山田は、今度は新兵をシゴく側にまわって意気盛んな一方で、面倒見のいい堀江中隊長(加藤嘉)の差し金により元・代用教員の柿内二等兵(藤山寛美)から読み書きを教わりはじめたが、そんなかれに突如、軍隊生活のクライマックスが訪れる。11月に行われた天覧の大演習のさなかに、だだっ広い野っ原で、白馬にまたがった「現人神」の天皇陛下がすぐ目の前を通りすぎていくのを拝したのである。その刹那、胸中にはむくむくとこんな思いが湧きあがってきた。
「うん? ありゃ、だれかに似とるわい。いやいや、いけん。神さまに似とるわけない。でも、まあ、よく似とるのう。なんと優しい顔してなさるんかいのう。あれじゃ、ちっとも怖いことありゃせんわい」
同様のことは大なり小なり、昭和の時代を生きた者は身に覚えがあるのではないだろうか? かくいうわたしも、新聞やテレビで天皇を拝見しては、その丸メガネをかけてチョビ髭をたくわえた風貌が親しいだれかに似ているような気分を味わったものだ。
それはともかく、無事2年間の訓練を終えて満期除隊した棟本と山田はいったん別れたものの、昭和12年(1937年)7月の盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発したとたん招集されて、ふたたび岡山第10連隊で顔を合わす運びに。そのまま中国大陸へ送り込まれると、ろくに銃をかまえることもないうちに、12月に南京が陥落して兵隊のあいだには早くも戦争終結・内地帰還のウワサが飛び交いだしたところ、棟本は山田がたどたどしい手つきで手紙を書いているのに気づく。
「ハイケイ 天ノウヘイカサマ」
事情を尋ねれば、山田は天国のような軍隊に自分だけでも残してほしいと天皇陛下に頼むことを思い立ったと答え、棟本はそんな直訴をしでかしたら不敬罪で罰せられると応じてすぐさま手紙を破り捨てた。もとより、戦火がそう簡単に落ち着くはずもなく、その後も望むと望まざるとにかかわらず軍隊生活を余儀なくされるなかで、また、やがて敗戦を迎えたあとには焼け野原と化した本土の困窮生活においても、ふたりは運命の糸に操られて訣別と再会を繰り返しながら、いじらしくも風変わりな天皇陛下の「赤子」の人生が綴られていくのだった……。
まさしく俳優・渥美清の面目躍如といったらいいのだろう。この笑っていいのか泣いていいのかわからない映画を眺めたあとに、ふいに、わたしは渥美と同世代の人物の名前がアタマに浮かんできた。
三島由紀夫――。昭和45年(1970年)11月、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地の本館2階のバルコニーに立って演説している光景の写真や映像を目にするたびに、その額に日の丸の鉢巻を締めて「楯の会」の制服をまとったいでたちが、渥美の演じる山田正助の軍服姿さながらにどこかちぐはぐな印象を抱かせるのだ。ことによったら、かれもまた昭和という時代が生み落とした、思いあまって「ハイケイ 天ノウヘイカサマ」と念じずにはいられない、いじらしくも風変わりな天皇陛下の「赤子」のひとりだったのではないだろうか?
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