『グリム童話集』

そこに思いがけない
プレゼントを発見して


676時限目◎本



堀間ロクなな


 ちょっとした必要があって、最寄りの公共図書館から岩波少年文庫の『グリム童話集』上巻を借りだしたところ、ページのあいだに思いがけないものを発見した。判型よりひとまわり小さな長方形の画用紙で、そこには鉛筆書きでこの本の新たな表紙のデッサンがしたためられていたのだ。



 タイトルは横書きで、袋文字の「グリム」とゴチック体の「童話集」がリズミカルに波打ち、その上部に王冠のように「Grimms Märchen」のドイツ語表記がのっている。バックには木の葉とリンゴの実、ミツバチのイラストがあしらわれて、下段に翻訳者と挿絵画家の名前がならび、ついで目次の「オオカミと七匹の子ヤギ」「ブレーメンの と書きかけたところで、ふいに終わっている……。



 むろん、ごく稚拙なデッサンではあるけれど、長年書籍の制作に携わってきたわたしの目には、はっきりとブック・デザインにかける意気込みが伝わり、少なくとも岩波少年文庫の杓子定規な装幀よりずっとわくわくさせられて好ましい。それにしても、この中途で放棄されたデッサンは何を意味するのだろうか? ためつすがめつ眺めながら、自分なりに推理を働かせてみた。



 筆圧のやわらかい文字やイラストのタッチからすると、デッサンを手がけたのは小学5年か6年の女子児童らしい。彼女はたまたま図書館から借りだした本を読みはじめて、とてもびっくりしたのに違いない。岩波少年文庫はオリジナルどおりの記述を方針としているので、『グリム童話集』の場合でも幼児向けの絵本などとは異なって、ときに残酷だったり、ときに背徳だったりする内容もそのまま出てくる。



 だから、最初に収録された『オオカミと七匹の子ヤギ』では、お母さんヤギが昼寝中のオオカミの腹を鋏で切り開いて子ヤギたちを救出したあと、代わりに石をつめて縫いあわせて、オオカミを泉で溺死させることに成功すると、お母さんヤギと子ヤギたちは快哉を叫んで踊りまわり、報復のためには相手の殺害も正当化される。また、二番目の『ブレーメンの音楽隊』では、ロバ、イヌ、ネコ、オンドリが年を取ったせいで邪険に扱われるようになった飼い主のもとから家出して、ブレーメンへ向かう道すがら、食べものと寝床を手に入れようと、泥棒たちの住み処で大騒ぎを繰り広げて占領してしまい、つまりは人間どもを上まわる泥棒ぶりが大いに賞賛される……。そうした物語の展開を前にして、彼女の内面で突如変化が生じたのではないか。



 これらのドイツ民話をまとめたヤーコブとウィルヘルムのグリム兄弟は、晩年に至って、つぎのようなエピソードと出会ったことが知られている。ひとりの少女が兄弟の住む家にやってきて、「面白いお話を書いたのはおじさまですか?」と尋ねたので、「はい、われわれです」と答えると、彼女は小さなサイフを取りだした。『利口な仕立屋』という物語の結びに「このお話を本当と思わないひとは1ターラー(銀貨)払いなさい」と書いてあり、「私は本当と思わないから1ターラー払わなきゃいけないんですけど、お小遣いが少ないので、とりあえず1グロッシェン(銅貨)だけ支払います」と告げて、兄弟に銅貨を押しつけて帰っていったというのだ。



 この19世紀ドイツの生真面目な少女は、自分の読んだ物語が現実の出来事ではないとわかっている一方で、すっかり『グリム童話集』に取り込まれて、その世界の住人のひとりになってしまったというわけだろう。同じように、21世紀日本の岩波少年文庫を手にした少女もまた、たちまち住人となったものの、彼女の場合は物語を読み進めていくより、このめくるめく世界をデザインしたいという方向へ突き動かされたものと見える。



 かくて、矢も楯もたまらず、鉛筆一本を手に勇んで画用紙に立ち向かった姿が目に浮かぶのだが、では、どうして中途で放棄したのだろうか? 完成前に本の貸し出し期間が切れて(この公共図書館は3週間に設定している)、慌てたあまりデッサンが挟まっていることを忘れて戻したのか。それとも、自分の知らないうちに母親かきょうだいが他の本とまとめて無造作に返してしまったのか。しかし、もしそうだとしたら、あとで図書館へ出かけてデッサンを回収できたはずだろう。



 わたしの推理はこうだ。『グリム童話集』の返却にあたって、彼女は未完の表紙のデッサンをわざとページのあいだに挟み込んだのだ。後日、この本を借りだす人物に自分の切なる思いを託するために。そして、そのひそやかなプレゼントの受け取り手となったのが奇しくもわたしだった、と――。


   

一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍