マーラー作曲『交響曲第1番〈巨人〉』
いずこより、いずこへ、
なんのために
687時限目◎音楽
堀間ロクなな
神秘的――。月並みな表現ではあるけれど、どうしてもこの言葉を使いたくなるのが、グスタフ・マーラー作曲の『交響曲第1番〈巨人〉』(1889年初演)の冒頭だ。それもわたしにいわせるなら、ブルーノ・ワルターがコロンビア交響楽団を指揮した1961年の録音にとどめを刺す。ご多分に漏れず、その曲と初めて出会ったときの印象に呪縛されるという例だろうが、しかし、つい呼吸を止めて聴き入ってしまうほどの説得力は以降のどんなレコードからも体験できなかったものだ。
オーケストラの弦楽器がフラジオレット奏法で七オクターブのA音を重ねていくと、軍楽隊のトランペットが鳴り響き、カッコウが四度音程でにぎやかに啼きだす……。そんな素朴きわまりない音楽がワルターのタクトにかかると、かくも神秘的な光芒を放つのはどうしたわけだろう?
ワルターの回想録『主題と変奏』(1950年)はこんなエピソードを伝えている。かれがベルリンの音楽院を卒業して指揮者の修行に入ったころ、マーラー自身の指揮で『巨人』に接する機会を得て激しく心動かされた直後の1894年9月、18歳のときにハンブルク歌劇場で音楽監督をつとめるマーラーそのひとの下で仕事をする運びになったという。ユダヤ人同士であることも与ったのだろう、16年の年齢差を超えて親密な交流がはじまり、マーラーがふたりの妹と暮らす自宅を訪問しては、創作について語りあい、『巨人』のスコアをピアノで弾いてもらったりするうち、ある日、妹のエンマがいきなり割って入って「アリョーシャとイヴァンと、どちらの言い分が正しいの」と訊ねてきたそうだ。そのあとに続く部分を引用しよう。内垣啓一・渡辺謙訳。
私がいぶかしげに見つめていると、彼女はドストエフスキーの『カラマーゾフ兄弟』のなかの、『兄弟の話しあい』と題された章のことだと説明した。兄がひじょうな情熱をもってそれに没頭していたので、私ともその話をしたのだろうと思ったのである。じじつこのイヴァンとアリョーシャの会話には、世界苦を苦しみ、慰安と上昇を求めるマーラーの悶えによく似た状態が、如実に表現されている。マーラーが考え、話し、読み、作曲したことはすべて、根底において、「いずこより、いずこへ、なんのために」という問題をめぐっていた。
マーラーが非常な情熱をもって『カラマーゾフの兄弟』に没頭していたとは! ロシアの文豪ドストエフスキーがこの最後の大作を出版したのは1884年だから、当時にあっては現代文学に他ならず、その影響力のもとでマーラーは最初の交響曲の筆を執ったものと思われる。文中で言及されている『兄弟の話しあい』では、無神論者の次男イヴァンと修道僧の三男アリョーシャが神の実在をめぐって議論を繰り広げ、やがてイヴァンがみずからの手になる劇詩『大審問官』を語りだす。おそらくはこの小説の核心であるばかりでなく、広大無辺なドストエフスキーの文学世界の核心もなす場面だろう。
そのイヴァンの劇詩は、ゴルゴダの丘で十字架にかけられたイエス・キリストが15世紀の歳月を経て、ふたたび地上の人類に救済の手を差しのべようと、異端審問の炎が燃えさかるスペインのセヴィリアに再臨するところからはじまる。こんなふうに。米川正夫訳。
キリストはいつともなくおもむろに現われた。すると一同の者は、――奇妙な話ではあるが、――それが主であることを悟ったのだ。ここは、ぼくの詩の中でもすぐれた個所の一つとなるべきところなんだ。つまり、どういうわけでみんながそれを悟るか、という理由がすてきなのだ。民衆はうち勝つことのできない力をもって、彼のほうへ押し寄せたと思うと、たちまちその周囲を取り囲み、しだいに厚く人がきを築きながら、彼のうしろに従って行く。彼は限りなき憐憫のほほえみを静かに浮かべながら、無言に群衆の中を進んで行く。愛の太陽はその胸に燃え、光明と力の光線はその目から流れ出て、人々の上に満ちあふれながら、応うるごとき愛をもって一同の心をふるわす。
そんなかれの前に立ちはだかった人物がいる。つぎつぎと異端者を捕らえて死刑に処してきた大審問官だ。いまや90歳になんなんとする老人は、相手が正真正銘のイエス・キリストであることを見て取ると、ただちに異端者として牢獄に放り込んで「いったいおまえはなんで今ごろ、われわれのじゃまをしに来たのだ?」と問いかける……。こうして永遠の救世主と迷える羊たる人類の運命をめぐって「いずこより、いずこへ、なんのために」のドラマが展開していくのだ。
そう、いまのわたしの耳にはこのイエス・キリストの再臨の場面と二重写しになって聴こえるのである。ワルターの指揮によって奏でられる、あの弦のフラジオレット奏法と、軍楽隊のトランペットやカッコウの啼き声の織りなす神秘的な冒頭部分が――。
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