『史記 五帝本紀』

司馬遷がここに
歴史の起点を置いたわけ


688時限目◎本



堀間ロクなな


 ちくま学芸文庫版『史記』の第1巻解説(礪波護)を読んで、まさに目からウロコの落ちる思いを味わった。アメリカの中国学者によると、漢字は近代以前、他のどの言語よりも多くの文献を残し、18世紀なかばまでに漢字で出版された図書の数は世界じゅうの他の言語の図書全部を上回っていたそうだ。これは同じ東アジアの漢字文化圏に暮らすわれわれにとって大いに胸のすくエピソードではないだろうか。



 そして、こうしたおびただしい漢字の図書に関しては、かねて経(儒教関係)・史(歴史関係)・子(思想関係)・集(文学関係)の四部分類が行われてきたところ、このうち史部が他に倍する圧倒的な分量を誇り、その筆頭に『史記』が位置づけられるというのである。



 漢の武帝の時代に『史記』(紀元前90年ごろ完成)を編纂した司馬遷は、『五帝本紀』から記述をはじめている。つまり、歴史の起点をここに置いたわけだ。今日では伝説上の存在とされる黄帝から堯・舜までの五代の天子について、司馬遷も文献が乏しくとりとめのない内容であることを認めたうえで、つぎのように記す。



 余嘗て西のかた空峒に至り、北のかた涿鹿を過ぎ、東のかた海に漸(いた)り、南のかた江淮に浮ぶ。長老皆各往々黄帝・堯・舜を称する処に至るに、風教固(まこと)に殊なり。之を総(す)ぶるに、古文を離れざる者是なるに近し。〔中略〕顧ふに弟(ただ)深く考へざるのみ。其の表見する所、皆虚ならず。



 みずから中国大陸の東西南北に広く足を運んでみたところ、黄帝や堯・舜と縁の深い地方には優れた風俗習慣が残っていること古い記録のとおりで、深く考究すれば決してでたらめではないとする。現代の言い方なら、実地のフィールドワークを踏まえた実証的・科学的な見解であることを強調しているのだ。



 もっとも、司馬遷がここを起点にしたのはそれだけが理由ではなさそうだ。最初に登場する黄帝は、古代の人々に医療と農業を教えたという神農氏の子孫がいつしか力を失ったのに代わって帝位につき、横暴な諸侯たちを討伐して全土に平和をもたらしたことを報告したあとで、こう続ける。



 官の名は皆雲を以てし、命じて雲師と為す。左右大監を置き、万国を監せしむ。万国和らぐ。而して鬼神山川の封禅は、與(ゆる)して多なりと為す。宝鼎を獲、日を迎へ筴(さく)を推す。風后・力牧・常先・大鴻を挙げ、以て民を治めしむ。天地の紀、幽明の占、死生の説、存亡の難に順ふ。時に百穀草木を播(し)き、鳥獣虫蛾を淳化し、日月・星辰・水波・土石・金玉をホウ羅し、心力耳目を労勤し、水火材物を節用す。土徳の瑞有り。故に黄帝と号す。



 文意は、――まつりごとを担う官名はみな黄帝を寿ぐ瑞雲にちなみ、その長を雲師といった。左右の大監を置いて諸侯を監督させたので仲良くなった。かくして天地山川の鬼神を祭る封禅の儀式が行われる運びになり、黄帝の挙行したものがこれまでで最も盛大だったとされている。また、天子のしるしである宝鼎を手に入れ、筴竹を操作して月日の運行を数えて暦をつくった。風后・力牧・常先・大鴻の4人を用いて人民を治めさせた。天地の法、陰陽の理、死生の制、存亡の変にしたがって、百穀草木を蒔き、鳥獣虫蛾を馴らし、日月星辰を測り、土石金玉を採り、心身耳目を労し、山野水沢の材を節用した。こうして土徳の吉兆があったので黄帝と号した。



 もろもろの政治上の段取りを整えたのち、四季の暦や宇宙の理法にもとづいて農林業や畜産業の基礎を築くとともに鉱業など天然資源の開発にも取り組んだとは、すなわち、国土の自然環境をすべからく人間の都合に合わせて秩序化していく第一歩を踏みだしたことを意味するわけで、それをもって黄帝を歴史の起点に置いたのだ。そこには、中国大陸の世界に生きる人間こそ主役であるとの司馬遷のリアリズムが横たわっていたのだろう。



 こうした世界観は、天上の神々の国生みによってわが国の歴史がはじまったと伝える『古事記』『日本書紀』とは著しい対照をなしている。そのあまりの懸隔が、たとえ同じ漢字文化圏に属していようとも、21世紀の今日を迎えてなお日本と中国とのあいだに十全な相互理解を成り立たせない事態を招いているのではないか。習近平国家主席が両国の関係をめぐって行った発言も、『史記』に発祥する強烈なリアリズムがもたらしたもののようにわたしには思えてならないのである。「隣人を選ぶことはできますが、隣国を選ぶことはできません」と――。  



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