黒島伝治 著&江戸川乱歩 著『二銭銅貨』

悲喜劇を
成り立たせたものは何か


690時限目◎本



堀間ロクなな


 わたしの知るかぎり、『二銭銅貨』という題名を持つ小説がふたつある。どちらも大正時代の末期に書かれたものだ。



 ひとつは、黒島伝治の『二銭銅貨』。1898年(明治31年)香川県小豆島生まれのかれが、早稲田大学予科在学中に兵役に召集され、シベリア出兵の軍隊経験をして肺尖炎症により除隊したのち、1925年(大正14年)、26歳のときに書きあげた作品で、雑誌『文芸戦線』に『銅貨二銭』として発表後に改題している。



 川沿いの小さな農村に住む一家の物語。そのころ、子どものあいだでは独楽遊びが流行っていて、兄・健吉の使い古しを弟・藤二がいやがって新しい独楽を欲しがったが、家計が苦しいなかで母親は独楽の緒だけを買ってやることにし、それも雑貨店で正価十銭のところ一本だけ他より短いものを見つけ、女将から「その短い分なら八銭にしといてあげまさ」といわれて二銭銅貨の釣りを受け取ったのだった。数日後、両親と健吉が田んぼの稲刈りに出かけたあと、藤二は牛屋で粉ひき臼を回す赤牛の番をしながら、独楽遊びでいつも負けるのは緒が短いせいだと考えて、少しでも伸ばそうと中央の柱にかけ両端を引っ張ってそっくり返っていた。夕方になって戻ってきた兄が目にしたのは、独楽の緒を片手に握ったまま倒れて頭を潰された弟の姿で、父親は「畜生!」と叫ぶと六尺棹を持ってきて、牛にすべての罪があるかのように殴り続けた。



 それから三年が経ったいまも、母親は藤二を思い出すたびに、こう呟いて涙をこぼすという。「あんな短い独楽の緒を買うてやらなんだらよかったのに!――緒を柱にかけて引っぱりよって片一方の端から手がはずれてころんだところを牛に踏まれたんじゃ。あんな緒を買うてやるんじゃなかったのに! 二銭やこし仕末をしたってなんちゃになりゃせん!」と――。



 もうひとつは、江戸川乱歩の『二銭銅貨』。1894年(明治27年)三重県名張生まれの本名・平井太郎が、早稲田大学政治経済学科を卒業して、造船所や化粧品会社に勤めたものの辞めてしまい、失業中の1923年(大正12年)、28歳のときにアメリカの作家エドガー・アラン・ポーにちなむペンネームで雑誌『新青年』に発表したデビュー作だ。



 東京の場末の下宿屋に暮らすふたりの貧乏青年の物語。ある日、同居人の松村は「私」が煙草屋の釣りで受け取ってきた二銭銅貨に重大な関心を示す。それは「直径三センチ余、厚さ四ミリほどの、どっしりと重い銅貨」であったところ、しばらくして松村はついに秘密を解き明かしたという。硬貨はふたつに割れるよう細工されていて、なかの空洞には暗号文があり、これにより目下話題の電機会社給料盗難事件で行方知れずの五万円をわがものにすることができたとして、「私」に向かってこんなふうにうそぶいた。「あの二銭銅貨のちょっとした点について、君が気づかないでおれが気づいたということはだ、そして、たった一枚の二銭銅貨から、五万円という金を、え、君、二銭の二百五十万倍であるところの五万円という金を探しだしたのは、これはなんだ。少なくとも、君の頭よりは、おれの頭の方がすぐれているということじゃないかね」と――。



 実のところ、南無阿弥陀仏の六文字と点字を組み合わせた暗号文も、また、すべては「私」が仕掛けたいたずらで、松村が後生大事に運んできた五万円はおもちゃの紙幣だったというオチも、はなはだ強引に過ぎて現実味がない。しかし、そんな荒唐無稽さを四の五のいわせずに読者に受け入れさせてしまう説得力は、いかにも将来の推理小説の大御所の門出にふさわしいものだろう。



 ふたつの『二銭銅貨』を並べてみると、双方のベクトルが真逆の方向なのがはっきりとわかる。すなわち、黒島作品は求心力が強く、一枚の二銭銅貨が幼い少年の命を奪い去るまでの過程を将棋の指し手のように緻密に描いて、わたしはその情景をありありと思い浮かべることができる。それに対して、乱歩作品のほうは遠心力を働かせて、一枚の二銭銅貨を触媒として化学の実験のように人間の欲望のおかしさを膨張させていき、眩暈を覚えるほどだ。こうして求心力と遠心力のベクトルによって悲喜劇を成り立たせたものは、まさしくドイツの革命家カール・マルクスが暴いてみせた「貨幣の物神性(フェティシズム)」だったのに違いない。



 だとするなら、これらの小説が書かれてからちょうど一世紀が経過した現在はいかに。貨幣というものにどれだけのドラマを生みだすエネルギーが宿っているだろうか? わたしは財布からつまみだした十円玉や百円玉を手の平にのせて、あらためて思いめぐらしたくなるのである。 



一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍